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悪党の因果応報

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 とは思っていなかった。
 確かに、誰かに、
「誰かに殺される」
 という理由もないが、それ以上に、
「遺書を残して自殺する」
 という理由も見当たらない。
 しかも、
「なかなか上がらないはずの死体が、まれなケースとして、少し離れた砂浜に討ちあがる」
 というのは、
「本当に偶然だろうか?」
 と、K警察署では考えたようだ。
 捜査本部まではまだできていないが、
「殺人も十分に考えられる」
 ということで、考えていた。
 特に家族は、
「自殺には納得がいかない」
 ということで、刑事に、必死で訴えていた。
 それだけで、
「自殺ではない」
 と言い切るわけにはいかないが、証拠に値すると考えるのも、無理のないことなのかも知れない。

                 過去の因縁

 自殺をしたと思われている男は、自分は、スーツアクターをしているが、父親は、スタントマンとやっていた。
 厳密には違うのだろうが、仕事としては、かなり近いものであり、実際に息子は、
「父親の背中を見て育った」
 といってもいいだろう。
 この男は名前を、
「岸本卓也」
 という。
 父親が、
「昭和のスタントマン」
 ということで、すでに父親は他界していた。
 今から、40年くらい前の話ということで、実際には、自殺した卓也も、
「もう現役を引退する」
 という年齢になっていた。
 親子ともども、テレビ業界において、俳優でもなく、裏方の仕事。
 そこには、精神的にきついところもあったことだろう。
 ただ、テレビに関しては、父親よりも、息子の方が、意識が強かった。
 父親が、スタントマンをやっていたのは、
「テレビよりも、映画の方が多かったかも知れない」
 まだまだ、テレビでは、スタントマンが、日の目を見る時代ということではなかったといってもいい。
 もちろん、アクションシーンが多い、特撮番組はたくさんあったが、
「出始めの商売が、実際に市民権を得る」
 というところまでいくのに、どれだけの努力が必要か?
 というのが、いわゆる、
「昭和という時代」
 であった。
「平成。令和」
 であっても、それは変わりないが、あくまでも、
「昭和という時代があってこそ」
 といってもいいだろう。
 そんな昭和という時代を、息子は知らないが、自分が、スーツアクターとして、テレビに出るようになると、
「自分は、影に徹する」
 ということで、
「影に徹する覚悟」
 というものを持っていないと、
「やっていられない」
 という思いがあったことだろう。
 それが、
「勧善懲悪」
 ということであった。
 これは、父親にも言えることであったが、父親は、息子から見ても、他の人から見ても、
「根っからの勧善懲悪だ」
 といってもよく、母親も、同じように、父親を信じていたことだろう。
「勧善懲悪というものの正体がどういうものなのか?」
 人それぞれに考え方が違っているだろう。
 だから、
「勧善懲悪というものも、人の数だけ存在する」
 といってもいいだろう。
 しかし、それは、あくまでも、
「考え方」
 というものからの派生ということであり、
「真実は一つ」
 といわれるように、根本的なところは、一つであるに違いない。
 そのことを、父親も、卓也も分かっているだろう。
 だから、
「勧善懲悪」
 という考え方は、
「究極には一つなのだ」
 と二人ともに思っていた。
 つまりは、
「勧善懲悪を突き詰めると、たどり着く考え方は、一つなのだ」
 ということになるのであろう。
 実は、父親も、最後は自殺だった。
 スタントマンも、
「引退したからやめた」
 というわけではなく、
「自殺したことで、できなくなった」
 というのが真相だった。
 しかし、俳優のように、
「スタントマンが変わった」
 ということで、番組のオープニングなどのタイトルテロップで、
「スタントマンが変わった」
 ということになっても、誰も意識をするということはないだろう。
 だから、父親の葬儀も、しめやかに行われた。当時は、
「親族のみの葬儀」
 というのは珍しかったが、そうするしかないくらい、自殺ということは、まわりに対してイメージが悪かったのだ。
 もっとも、その頃の自殺者は、結構いたりした。
 それまでの、
「バブル期の華やかさ」
 というものの反動だといってもいいだろう。
「結婚も、派手な式を挙げずに済ませる」
 という人も増えてきた。
 それまでの時代では、
「結婚式と、披露宴を別々に考える」
 という、ブライダル会社は、あまりなかったが、
「時代の変革」
 とともに、
「結婚式も、派手さだけを求めるものではない」
 ということも大きなってきた。
 そもそも、昔から、
「結婚式に金を掛けるのは、もったいない」
 ともいう人もいたが、どうしても、結婚というと、
「家と家の結びつき」
 という発想が強いことから、どうしても、
「派手な結婚式」
 というものが多かったりした。
 しかし、結婚というのは、
「お互いにお金を使い、それが、後から返ってくる」
 というようなシステムになっている。
「結婚する当事者」
 というのも、
「結納金で、新生活の材料をそろえる」
 ということであったり、結婚式に参加する人とすれば、
「祝い金」
 というものが、披露宴の参加費というものであったり、
「引き出物」
 として返ってくるというものであることから、
「まるで、結婚式関係の業者が儲かるだけ」
 という風に思えて仕方がない。
「これが、昔からの儀式だ」
 ということであるから、誰も、その疑問を大っぴらに口にすることはしないが、さすがに、結婚式に掛かる費用は、バブル後ということであれば、その負担は、ハンパではないといってもいいだろう。
 実際に、その時代になると、
「離婚率が一気に上がってくる」
 といえる。
 特に、
「成田離婚」
 という言葉に代表されるように、
「結婚というものは何なのか?」
 ということになる。
「すぐに離婚するんであれば、何も結婚式など大げさなことをしなくてもいい」
 と考える人も多いだろう。
 そもそも、
「結婚なんてしなくていい」
 と思う人が増えてくると、当然、結婚式など挙げる人はいなくなるというわけである。
 結婚式という儀式が減ってくると、今度は、
「ブライダル業界」
 が成り立たなくなる。
 そうなると、
「今までの風習」
 というものにこだわるわけにはいかないということになるだろう。
 そもそも、
「結婚式をどうしてしないといけないのか?」
 という発想を飛び越して、
「結婚自体、何の意味があるのか?」
 と、一足飛びに考える人が増えてきた。
「一緒にいたいから、一緒にいる」
 というのではいけないのだろうか?
 それを考えると、
「結婚というのは、束縛でしかない」
 と考えたとしても、無理もないことだろう。
「家と家が結びつく」
 ということのためなのか?
 それとも、
「子孫繁栄」
 ということのためなのか?
 後者は、
「誰のための子孫繁栄なのか?」
 ということである。
 確かに、
「家」
 というものが大切だった時代であれば、最優先は、
作品名:悪党の因果応報 作家名:森本晃次