悪党の因果応報
というものになるといってもいいだろう。
そういう意味で、
「探偵小説には限りがない」
ということになるのではないだろうか?
「論理的」
かつ。
「合理的」
といわれるトリックが、ある意味、
「平成における、テレビドラマの一ジャンルであった、2時間サスペンスと呼ばれるものを気づいた」
といってもいいだろう。
また、
「死体損壊トリック」
といわれるものだが、当時は、その時、探偵小説作家の中でも、
「第一人者」
といわれ、今でも、
「昭和の、名探偵を作った」
ということで、神話のように言われている作家がいるが、その人の、
「提唱した表現」
として、
「顔のない死体のトリック」
という表現になっている。
これは、
「首無し死体」
であったり、
「顔をつぶされている」
ということからの表現であるが、それ以外にも、
「正体がまったくつかめない」
という人のことを、
「顔がない」
という表現を用いているのであるが、この場合の、
「顔のない死体のトリック」
と、
「死体損壊トリック」
ということでの共通点として、
「公式がある」
という表現をしていた。
というのも、
「犯人と被害者が入れ替わる」
ということのために、
「身元が分からないようにする」
ということであった。
今であれば、
「顔をつぶしていようが、指紋がなかろうが、DNA鑑定というものがあることから、被害者を推定することができて、その人のDNAを採取することができる」
というものがあれば、
「被害者を特定する」
ということはできるということだ。
しかし、当時、戦前から戦後にかけての、いわゆる、
「探偵小説」
と呼ばれていた時代であれば、
「顔のない死体のトリック」
というのは、
「犯人と被害者が入れ替わっている」
ということを前提に考えると言われてきた。
だから、それを逆手にとって、
「別のトリックと組み合わせることによって、トリックへの挑戦を行った作家がたくさんいた」
ということになる。
実際に、
「顔のない死体のトリック」
という言葉を提唱した作家も、
「自分でも、この命題に挑戦し、ベストセラーとなった作品を生み出した」
ということだったのだ。
そういう意味で、
「公式として成り立っている」
というものも、実際にトリックが飽和状態になると、普通なら使えないということになるのだろうが、逆に、
「逆手に取る」
ということで、
「新たなジャンルを切り開く」
ということで、新しい作品やジャンルが生まれるということになるのであった。
実際に、
「今の時代では、まともに、そのトリックだけを使えば、ミステリー小説にはならない」
ということで、
「トリックにバリエーションをつける」
ということによって、
「探偵小説は、トリックに頼ってばかりではいけない」
ということになるのだろう。
すいう意味で、
「今の時代では通用しない」
といわれる、
「死体損壊トリック」
であったり、
「アリバイトリック」
などというのは、
「逆手に取る」
ということで、バリエーションを生かした、それまでは、
「トリックや謎解きを主題とした」
ということでの、
「本格探偵小説」
というものが、
「バリエーションを生かした小説」
ということでの、
「新たなジャンル」
というものができることになるということである。
実際に、トリックというのは、これだけではなく、
「おおざっぱ」
ということで考えると、
「密室トリック」
「一人二役トリック」
「叙述トリック」
などというものに別れたりする。
それぞれ、
「顔のない死体のトリック」
「アリバイトリック」
なども含めたところで、
「ストーリー展開」
というのを、いかにトリックに結びつけるかということで、そのストーリー性というのが変わってくることで、難しいといえるだろう。
それが、
「探偵小説の醍醐味」
といえるもので、
「戦前戦後の探偵小説」
と、
「それ以降の小説」
ということで、
「大きな流れの分岐点」
といっていいだろう。
殺された男
分岐点の後に現れたのは、
「社会派小説」
といわれるものであった。
というのは、それまでの、探偵小説のように、
「謎解きやトリック解明というものを、探偵にやらせる」
というストーリー展開ではなく、
「もっと、ストーリーというものを重要視する形で、人間ドラマといわれるものを重視した作品」
というものが、社会派小説と呼ばれるものである。
というのは、
「当時の社会情勢として、高度成長時代というのがあった」
ということであるが、その時代が一定の成長を済ませると、今度は、
「それに伴う社会問題が、起こってくる」
ということだ。
前述の、
「犯罪における社会問題」
ということではなく、
「社会情勢の副産物」
ということでの社会問題などである。
それが、
「高度成長時代」
というのが、すべてだったと言われる時代における、
「副産物」
として、一つは。
「公害問題」
というものである。
「高度成長時代に乗り遅れてはいけない」
ということで、当時は、
「公害問題が起こる」
ということを予見しておきながら、それでも、無理を押し通すということで、
「会社と地域住民との問題」
さらに、そこに
「国家賠償」
というものが絡むと、
「企業としては、後戻りはできない」
と考えてしまい、結局は、
「地域住民に、その犠牲を押し付ける」
ということになる。
会社や国家も、
「隠蔽しよう」
と考えることで、その問題が
「ヒューマンドラマ」
ということで、
「架空の物語となる」
ということである。
さらに、
「公害問題」
というところまでいかないまでも、
「住民に多大な犠牲を被る」
ということで、こちらは特に、
「国による公共事業」
ということで、公然と、土地買収においての、
「嫌がらせ事件」
などというものが多発していた。
これも、
「ヒューマンドラマ」
ということで、
「架空の物語となる」
ということである。
そんな時代に書かれた小説が。
「社会派小説」
といわれるもので、その根幹は、
「ヒューマンドラマ」
ということになるのだ。
なるほど、昭和時代の、テレビにおける
「刑事もの」
というと、
「人間ドラマ」
というものが確かに多かった。
特に、
「熱血」
ということで、よく、平成、令和の刑事と比較されるということになるだろう。
ただ、時代が進むにつれて、
「熱血根性」
というものが、
「昭和の化石」
と呼ばれるようになり、
「合理性」
というものを重要視する社会においては、
「熱血根性」
というのは、それこそ、
「戦争中における軍隊主義のようなもの」
といわれ、嫌われる発想ということになるのだろう。
確かに、
「熱血根性」
というと、
「軍隊式」
ということで、今の時代の、
「押し付けられた民主主義」
においては、嫌われるというのは無理もないことだ。



