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悪党の因果応報

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 というものがあった。
 いわゆる、
「世間知らず」
 といわれる老人をだまし。老後の資金を根こそぎはぎ取ろうという詐欺だったのだ。
「善良な市民」
 を装ったり、
「介護を親切から申し出る」
 というやり方で、親切心の押し売りを行ったり。さらには、
「年寄りは、金は持っているが、孤独だ」
 という、その、
「孤独」
 という部分に狙いをつけるということで、まるで、
「家族の疑似愛情」
 とでもいうような、
「おじいさんの孫になりたいな」
 などというようなことを言われれば、孤独老人は、
「お金をこの子に」
 と感じることだろう。
 中には、
「オンナの武器」
 というものを使っての、
「色仕掛け」
 で、老人をたぶらかせたりするものだ。
 特に、
「もう老人なのだから」
 ということで、
「男としての機能」
 というものをあきらめかけていた人が、若い女に出会ったことで、
「俺もまだまだこれからだ」
 ということから、
「生きる希望のようなものをもらった」
 と感じれば、もうまわりが何を言おうとも、いうことを聞いたりはしないだろう。
 なんといっても、まわりで忠告をする人がいたとしても、老人はその人たちに対して、
「どうせ今まで、俺のことなんか気にもしていなかっただろう」
 ということで、
「表面上のやさしさ」
 いや、
「自分のことだけしか考えていないやさしさ」
 ということで、
「人間の嫌なところが見えた」
 と思ってしまうのだ。
 本当は、目の前のやさしさというものが、一番悪いものなのに、それに気づかないというのは、実に悲しいことで、それこそが、
「詐欺商法」
 ということで、大きな社会問題となったのだ。
 特に昭和の時代というと、今では信じられないような時代だった。
「近所づきあい」
 というのが普通にあり、
「町内会」
 というものがキチンと機能していた。
 老人というと、今も昔も、煙たがられることが多いが、それでも、今よりも昔の方が、
「敬意を表する」
 という意味では、ありがたがられていたことだろう。
 ただ、どうしても、
「頑固爺さん」
 というのはいるもので、それも、
「一種の孤独の表れだった」
 といっていいかも知れない。
 そして、昭和の終わりことになると、
「家の制度」
 というものが、どんどんなくなっていき、
「長男だから、家を継ぐ」
 などという、しょういう風潮もなくなってきた。
 そもそも、
「継ぐ家もない」
 という人も多くなり、
「子供は結婚すると、夫婦だけの生活を望む」
 ということになってきて、
「親とは別居」
 というのが当たり前になってきたのであった。
 そんな時代だからこそ、
「孤独な老人が増えてきた」
 といってもいいだろう。
 特に、老夫婦のうちの、どちらかが亡くなって、一人取り残されてしまうと、孤独に輪をかけたという状況になり、
「優しくされると、コロッと騙される」
 というのも当たり前ということになるだろう。
 そうなると、
「まわりの助言が余計に信じられない」
 ということになる。
「今まで、散々放っておいて、今さら何をいう」
 というものである。
「人間。身近だったと思っていた人に遠ざかられると、裏切られたような気分にさせられる」
 ということで、
「それこそ、詐欺が狙いを定めるにふさわしい」
 といえるだろう。
「おじいちゃんは、子供の頃に亡くなったので、おじいちゃん孝行をできなかったことが心残りで、だから、後悔したくないので、今自分はここにいる」
 などといえば、孤独老人は、
「コロッと騙される」
 というものだ。
「騙される本人が悪い」
 といえば、確かにそうなのだが、そもそも、老人を放っておくことになった社会情勢にも問題があるといえるのではないか。
 今では、
「当たり前「
 という状況になっているが、昔は、それでも、
「老後の生活は、悠々自適だった」
 ということである。
 今の時代は、その金すらままならない。
 つまりは、昭和の頃くらいまでは、
「息子たちが親の面倒を見る」
 ということも十分にあった時代だったが、途中からは、
「子供たちは、自分たちのことで精いっぱい」
 ということで、面倒を見なくなった。
 当時は、
「金銭的な問題」
 ということではなく、そもそもの、
「家制度」
 というものの、崩壊。
 それは、
「外国から押し付けられ、急激な変革が行われた民主主義」
 というものが影響しているといってもいいだろう。
 特に、
「自由」
 というものが、民主主義の基本ということになったので、
「個人の自由」
 というものが、大切だと考えられるようになり、それまでの
「家制度」
 というものが、まるで悪だったかのようにも思われたのだろう。
「長男が家を継がなければいけない」
 であったり、結婚というものも、
「許嫁」
 などというものがあり、
「実際の当人同士で結婚相手を決める」
 という、
「恋愛結婚」
 などというものは、昔はなかったものである。
 しかし、
「敗戦によって、強引に押し付けられた民主主義」
 というものは、あくまでも、
「自由」
 というものを大切にし、そして、
「個人の人権を尊重する」
 ということに重点を置いていた。
 確かに、今では、
「それが当たり前」
 ということになっているので、
「かつての時代が、あたかも悪い時代だった」
 といわれるが、果たしてそうだったんおだろうか?
 いろいろと考えてみると、結局は、
「極端な考えに至ってしまう」
 ということがまずいといえるのではないだろうか?
 だから、
「少しでも、違う考え」
 というのが出てくると、
「その両極端な発想になる」
 とも考えられ、
「徹底的に反対」
 ということで、
「最初から受け入れられない」
 ということもあるだろう。
 しかし、逆に、
「新鮮な考え方で、魅力を感じると、引き付けられる」
 と思えてくるものなのかも知れない。
 それを考えると、
「昭和の終わりの詐欺」
 というのも、そういう、ちょっとした違う考えを、
「新鮮」
 として年寄りが受け入れる環境に、社会があったということで、
「大きな問題となった」
 ということなのだ。
 だから、
「老いらくの恋」
 とでもいうような話が出てくるわけで、
「定年退職した老人が、色仕掛けに引っかかるなんて」
 と思うのだろうが、
「その色仕掛け」
 というのも、ただ、セックスという色仕掛けではなく、
「癒しを与える」
 という意味での色仕掛けであれば、年を取っていても、
「気持ちでつながっている」
 と思えば。引っかかったとしても、無理もないことだといえるだろう。
 そもそも、
「色仕掛けでも引っかかってしまう」
 というほど、世間が冷たいということを証明しているのだ。
 つまりは、この時の詐欺事件に対して、
「若い連中が、どんなに騙された老人を非難しようが、結局は、自分たち若者が招いた事情」
 ということではないか。
「年寄りを、そこまで追い詰めた」
 ということになるのだろうが、若者としても、
「世の中の移り変わり」
 というものであったり、
作品名:悪党の因果応報 作家名:森本晃次