悪党の因果応報
「存在しているということが、必ずしも意識につながらなければ、見えていないのと同じだ」
ということで、それが、
「道端に落ちている」
ということであったり、
「河原に無造作に転がっている」
という石ころの存在ではないだろうか?
「相手を意識する」
というのは、
「こちらが意識しているのと同時に、相手にも意識してもらっている」
ということで、生物ではなくても、相手にその存在を意識させるということで、それは、
「目の前に反射することで、こちらの存在を意識させる」
というものであった。
これを、
「星」
というもおのの存在だと考えると、
「星というものは、自分で光を発するか?」
あるいは
「光を発する星の光を反射させることで、自分の存在をまわりに意識させる」
ということで、安全を計っているのである。
だから、逆に、
「光を発せず、まわりから反射も受けることのない」
という存在以外があるとすれば、
「反射することも、光を反射させることもなく、光を吸収する」
という考え方だ。
そんな星は、光を吸収することで、相手に自分の存在を見せることができないことで、今度は、
「ステルス状態で、相手に近づくことができる」
というわけだ。
「こちらの気配を消して、相手の存在を知らせない」
つまりは、
「まるで忍者のようなものだ」
といってもいいだろう。
宇宙空間のように、
「そもそも、光というものが存在せず、あるのは、星の力によって光るものでしかない」
そんな宇宙空間であれば、
「星の中の悪」
というのは、
「光を発しないもの」
ということで、しかも、それはあくまでも、
「光を発している物体の影」
ということで存在していることで、悪ではないといえるものなのだ。
しかし、
「影でもなく、光を発しないステルスのようなもの」
というのは、
「宇宙空間において、その力は、ずるして存在しているもの」
ということでもあり、
「迷惑をかける」
ということで、
「悪:
ということになるだろう。
つまり、この地球上においても、
「光っているわけでもなく、光を発するわけでもなく、影でもない」
という存在は、
「害悪でしかない」
というわけで、
「実際に、影ということで暗躍している人を、世間では、
「罪悪だ」
という認識でいる人もいるだろうが、考え方によっては、
「それほどの悪ではない」
ということで、まだまだ悪の基準からすれば、
「甘いところにいる」
といってもいいだろう。
完全に、
「ステルス」
になっていて、
「影ではなく、光を発しない罪悪の星があるとすれば、俺のことではないだろうか?」
と、卓也は考えるようになっていた。
「少なくとも、俺は、影でも光でもない」
と考えたことで、
「俺は、罪悪の素質があるのではないか?」
と考えたのだ。
卓也は、性格的に、
「天邪鬼なところがある」
ということで、いつも、
「人と同じではいやだ」
と思っていた。
だから、
「皆正義でなければいけない」
などと、学校で先生が教えたならば、
「それは間違いだ」
と解釈し、
「自分から近寄るようなことはしない」
と考えることであろう。
だから、子供尾頃から、
「人をいかにして殺すか?」
というような、
「殺人トリック」
などというものをよく考えていたのだ。
友達の中には、
「彼が、そんなことをいつも考えている」
というのを知っている人もいるが、
「まさか、本当にそんなことをするわけはない」
ということで、
「天邪鬼もそこまでいけば、空想力を育てるという意味では、いいことなのかも知れないな」
と考えるようになっていたのだ。
「中学生になってよく。探偵小説を読んで、トリックなどを考えたりしたが、お父さんが、スタントマンだ」
ということも大きかったのかも知れない。
昔のサスペンス劇場などを見ていると、子供の頃は、面白かったと思っていた。
しかし、高校生くらいになると、
「何が面白いんだろう?」
と考えるようになったのだが、そこには、
「人と同じではいやだ」
という発想の中にある、
「独創性」
という考えがないからであった。
父親は、
「人にまみれて生きる」
ということを考えていた。
だから、自殺をしたり、まわりに迷惑を掛けたりはしたが、息子から見ると、
「悪党にはなりきれていない」
ということだ。
だとすれば、
「悪党とは何なのか?」
ということであるが、
「人を殺すから?」
あるいは、
「人を、死にたくなるほどに追い詰める」
ということなのか?
それらを考えると、
「悪党の定義」
というのが分からない。
「分かっているつもりになっているだけなのではないか?」
と考えるのだが、もしそうだとすれば、
「人を殺す」
ということで、その人の人生がそこで終わるというわけだ。
それを、他の人がしていいのだろうか?
ということである。
自殺だって、
「本人が自分で死ぬ」
というのだから、別に許してもいいのではないか?
と思う。
なんといっても、
「生まれる時、人間は毛kkして平等ではない」
ということで、
「生まれることを選べないからだ」
ということである。
しかし、死ぬ時くらいは、
「自分で選べてもいいのではないだろうか?」
確かに、
「残された家族が気の毒だ」
ということで、
「残された家族に対しての悪だ」
ということになるだろう。
だが、結局。
「人間というのは、一人で生まれて、一人で死んでいく」
ということであり、確かに生まれる時は、
「母親は、生みの苦しみ」
というものを味わい、両親ともに、
「育ての苦しみ」
というものを感じながら生きるということになる。
そういう意味で、
「一人で生まれてきた」
というのは、
「生命の誕生に対しての冒涜だ」
といってもいいだろう。
だが、死ぬ時はどうなのか?
生まれる時ほど、強力を必要としない。
「生きていることに疲れた」
ということであったり、
「生きていたくない」
と思う人でも、何とか説得して、死なないようにするというのは、ドラマなどでよくあるシーンだ。
しかし、究極の考え方として、
「死ねなかったことで、植物人間になってしまった」
という場合はどうであろう。
「生きているだけでお金がかかり、家族が、多大な迷惑を被る」
ということになる。
借金をしてでも、生かさなければいけないということで、だからといって、家族以外に、その責任があるわけではない。
「国家がすべての金を出してくれる」
というわけでもない。
しかも、介護にも費用が掛かったり、自分たちでする場合、その手間がどれほど大変なことなのか?
それこそ、
「国家から、褒美が出てもしかるべきではないか?」
といえるだろう。
それでも、限界というものがあり、その限界に耐えられなくなったからといって、
「安楽死」
ということは許されない。
それこそ、
「尊厳死」
として認めてやってもいいのではないだろうか?
その時の世間や、政府などこそ、
「本当の悪党だ」



