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悪党の因果応報

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 ということになるのだろうが、だったら、
「そもそも、生まれ変わる必要があるのか?」
 ということである。
 それこそ、
「皆が皆不老不死」
 ということであれば、
「あの世の存在など必要としない」
 といえるだろう。
 本当に、あの世というのは存在していて、実際に、
「あの世としての機能」
 が証明されているということであれば、辻褄は合うのだ。
 しかし実際に、人は、
「死んでいき、生まれてくる」
 というものだ。
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 という、
「まるで禅問答のようなもの」
 という考え方があるが、
 これも、
「生き物が、不老不死ではない」
 という考え方からきているのだ。
 だが、冷静に考えれば、
「あの世の存在の必要性」
 というものを思えば、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 という発想は、滑稽な話ということで済まされることではないだろう。
 確かに、不老不死という言葉の裏返しに、
「生と死」
 というものはありえないということがあるだろう。
 そもそも、不老不死ということで、
「生も死もない」
 ということであれば、
「世の中がすべて一つだ」
 ということの証明となるであろう。
 逆にいえば、
「生と死」
 というものが存在することで、世の中は少なくとも、
「一つではない」
 といえるだろう。
 というのは、
「死後の世界」
 というものが存在するというわけで、
「どうして、死後の世界を、前世や後世としての存在に加えないのか?」
 ということは疑問であるが、
「その疑問を考えるよりも、生死があることで、輪廻転生ということに、何か大きな意味があるのではないか?」
 ということになるであろう。
 この世において、
「あの世を想像したのは、生と死があるからで、人間が創造する、死後の世界」
 というものが、本当に存在する世界なのかということは分からないが、少なくとも、その創造というものが、
「死後の世界」
 というものをいかに演出しているか?
 ということで、
「SF的な発想が生まれ、そこに宗教が結びついてくる」
 ということになるだろう。
「宗教的発想」
 というのは、あくまでも、
「人間の発想が生み出した」
 というもので、
「教祖は人間。決して神ではない」
 ということは、今起こっているいろいろな宗教問題というのが、それを証明しているといってもいいかも知れない。
 結局は、
「自分たちの組織を確立する」
 ということのため。
 あるいは、
「世のため。人のため」
 というきれいごとを言っているが、結局は、
「自分たちの私利私欲のため」
 という、それこそ、
「絵に描いたような宗教問題」
 ということで、
 特に、
「新興宗教」
「カルト宗教」
 といわれているものは、行動パターンも決まっていることから、
「結局は、人間の限界がある発想の外に出ることはできない」
 ということであろう。
 父親がどうであったかは別にして、息子の卓也は、
「悪党」
 であった。
 誰に聞いても、
「あいつはヤバい」
 という言葉しか出てこない。
 その理由として、
「誰も、その根拠についてハッキリとしたエビデンスがあるわけではないのに、皆が皆、あいつはヤバいというんだ」
 ということである。
 普通であれば、
「何か怪しいということを感じれば、その根拠になるエビデンスというののが表に出てきてしかるべきである」
 つまりは、
「あいつは、何か特定のことを言われると、急に切れる」
 ということであったり、
「家族の問題に触れてはいけない」
 などという。明確に、
「触れてはいけない」
 ということが分かっていれば、それに触れさえしなければ問題ないというわけなのに、
「やつの場合は、その沸点が分からない」
 ということだ。
「何を言えば怒りだすのか、まったく分からない」
 ということで、
「なるべく、やつを怒らせないようにしよう」
 ということが分かるというものだ。
 しかも、
「奴がいったん切れると、何をするか分からない」
 ということで、
「気が付けば、誰かが殺されていた」
 ということだって平気で起こるということで、
「だったら、近づかなければいいじゃないか」
 ということなのだろうが、それを放っておいてくれるほど、やつは、
「優しくはないのであった」
 つまりは、
「自分の私利私欲」
 というもののためであれば、まわりは一切関係ない。
 そもそも、子供の頃から、甘やかしていたということになるのかも知れないが、それも、彼の境遇を考えれば、むげに突き放すようなことができるはずもない。
 しかも、不幸ではあるが、
「やつは、上を見ればきりはないが、下を向いてもきりがない」
 ということで、
「中途半端な存在」
 ということになり、
「そんなやつを中途半端に甘やかすと、どこまで図に乗るか分からない」
 ということであった。
 しかも、彼の場合は、足元に歯止めというものがない。
「自分の中で、見つけることのない限界を、そもそも、そんな限界などない」
 ということで考えてしまうと、結局は、
「自分の都合のいい方にいしか見ない」
 ということになり、
「いったん、こっちだと思えば、それが都合がよければ、その道を突っ走る」
 ということになる。
 だから、
「彼を育てる立場にいる人の責任は重大だ」
 ということであるが、肝心の彼を育てるという役割をしている人は、実際にはいないのであった。
 それを考えると、
「悪党の悪党たるゆえん」
 というもので、
「何が悪なのか?」
 そこに、人間のエゴがうごめいている気がして仕方がない。
 人間というのは、
「自分は決して悪ではない」
 と思っていることだろう。
 しかし、本当の悪というのは、
「自分は悪党だ」
 ということを認識していることであろう。
 そうでなければ、今度は、
「自分が危険な立場にある」
 ということが分からずに、
「ただ、滅びていくだけ」
 ということになり、悪としての役割を果たすことなく、死んでいくということになりかねない。
 だが、世の中には
「必要悪」
 というものもある。
 それを考えると、
「必要ではない悪」
 というのも存在しているわけで、
「正義」
 というもの、
「悪というものの反映だ」
 ということであれば、
「必要な正義」
 というものもあれば、
「必要ではない」
 つまりは、
「不要な正義」
 というのもあるといってもいいかも知れない。
 というのは、
「正義の仮面を振りかざし、実際には、仮面の裏に悪が住んでいる」
 ということもあるだろう。
 それが、
「ずるというものを行って存在している正義」
 ということであり、
「悪というものと、正対して存在するものではないだろうか?」
 と考えられる。
「見えているのに、その存在を肯定することができないもの」
 ということで、いわゆる、
「路傍の石」
 という考え方があるというものだ。
 これは、
「実際に目の前にあって見えているのに、その存在を意識することができない」
 というものであって。
作品名:悪党の因果応報 作家名:森本晃次