笑みの中の恐怖
「懐かしい」
といえるものではあるが、
「記憶というものが、一定していない」
というものだと、初めて知ったのだ。
「時系列としては、バラバラ」
というもので、
「それだけ、
「因縁が絡んでいるとはいえない」
と考えるのであった。
しかし、そもそも、
「因縁が絡んでいない」
ということになると、
「記憶を取り戻すどころか、それを意識として復元するということは、土台無理なことなのではないか?」
といえるだろう。
実際に、
「記憶」
というものと
「意識」
というものは、
「ただ、思い出す」
というだけの、記憶ではなく、
「思い出したものが、何か影響してくる」
ということで、
「記憶を、使うことができるための、意識というものへの変換」
というものが必要であるということは、無意識にでも、誰もが感じているということではないだろうか?
警官時代に、
「確かに、自分は何か、第一発見者であることのデメリットである理由を発見した気がした」
それを感じたのは、
「警官時代に、一緒に発見したが、一瞬早かった第一発見者が、殺された」
ということから、
「自分にトラウマができた」
と思うようになったのであるが、
実際には、
「そのトラウマの正体」
というものが、
「別のものではないか?」
と考えるようになったからであった。
そこに、
「メリット」
であったり、
「デメリット」
と言ったような、
「形式的な感覚」
というものが生まれてきたということから、考えられることではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「死体発見」
というもので、最初に見つけた瞬間と、遅れて見つけた場合とでは、
「違うものを見ているのではないか?」
という考えに至るような気がするのであった。
「少しでも、角度が違うと、見え方はまったく違う」
というものであり、
「その角度」
というものが、
「方角」
というだけではなく、
「時間」
であったり、
「立場:
などという、あらゆる方向から見る、
「多次元」
というものであったとすれば、それが、
「別の意味でのトラウマを生む」
という理屈を考えたとしても、無理もないことのように思う。
実際に、今回の事件のように、
「死体を発見する」
というようなことは、
「普通は、なかなか見つけるものではない」
といってもいいだろう。
死体といっても、
「殺人事件」
というものに限ったことではない。
「事故」
であったり、
「自殺」
などというものもあり、一番最初に警察が考えることとすれば、
「事故」
というものを想像するだろう。
「誰もが、いつ巻き込まれるか分からない」
という意味での、事故である。
巻き込まれるという意味では、
「事件」
というものが、次に来る。
特に、
「殺人事件」
というものは、そこに殺意というものがあり、事件としても、
「最大級の大きさの事件」
ということで、
「真剣に取り組まなければいけない」
ということから、
「捜査においても、少々強引なところがあり、参考人に対しても、強引な聞き方をすることがあり、トラブルのもとになりかねない」
のである。
そして、次に考えられるのは、
「自殺」
である。
実際に、
「殺人事件の可能性」
というものに比べれば、
「自殺の方が確率的には明らかに高いのではないだろうか?」
それだけ、
「自殺者が多い」
ということは、
「世の中が安定していない」
ということで、
「自殺でよかった」
などというのは、とんでもない勘違いであり、自殺というのも、言い方を変えると、
「社会に殺された」
といってもいいかも知れない。
もっとも、刑事ドラマなどでは、
「自殺を容認しないように」
ということで、
「いかなる理由があるとはいえ、自殺はいけないこと」
という立場で番組を作っている。
それこそ、
「倫理や道徳」
そして、
「モラルの問題」
ということになるだろう。
だが、自殺というものにも、
「自殺しなければいけないだけの理由」
というものがあり、そのほとんどすべてといってもいいくらいに、
「社会の責任」
といってもいいだろう。
「本人が、必死に抗いでもどうすることもできなかった」
ということで。
「最後の手段」
として。
「自殺を選択した」
ということになるのだ。
確かに、自殺をするということは、いいことではないが、
「絶対にいけない」
というのは、
「モラルの問題」
ということからが強いということで、
「本当の自殺」
というものを見ようとしないから問題なのだ。
ということで、
「だからこそ、自殺は減らない」
ということだ。
「自殺は悪いこと」
ということで、その真意について目をつぶるという、
「逃げ道を作った」
ということで、
「結局は、本質に触れず、自殺志願者の立場に立って考えない」
ということが、本来の元凶であると、誰も気づかないことが問題なのではないだろうか?
それを考えると、
「自殺の真意」
というものを、
「どうして、誰も検証しようとしないのか?」
ということである。
このこと自体が、
「逃げている」
と言われても仕方はないということになるであろう。
自殺の真意
ちなみに、
「死体発見において、一番わかりやすい」
というのは、
「自殺」
ではないだろうか。
というのも、
「自殺であれば、遺書というものがある」
ということで、
「少なくとも遺書があれば、自殺だ」
といえるだろう。
しかし、これが一概にいえないのが、
「犯罪」
というもので、
「自殺に見せかけた殺人」
というのも、実際には結構多いかも知れない。
よくあるのが、
「自殺の名所」
というところでの、
「飛び込み自殺」
つまり、
「断崖絶壁のところに靴と遺書が置かれている」
ということだ。
しかし、えてして。自殺の名所というと、
「死体は上がらない」
と言われているところが多い。
「偽装工作ができる」:
という環境にあれば、
「殺しておいて、自殺に見せかける」
ということは、結構多いことだろう。
また、次に多いのは、
「服毒自殺」
というものを装うことである。
ただ、
「服毒自殺」
というのは、結構、
「難しいことだ」
といえるのではないだろうか?
というのは、
「毒物を、一般人が手に入れるというのは、基本的には無理な世の中になっている」
といってもいい。
しかし、
「医療関係者」
であったり、
「メッキ工場に近い工場」
のようなところでは手に入ったりはする。
もちろん、
「法律できちんと管理されていて、簡単に盗み出すことができない」
ということになっている。
だが、
「野に咲いている毒草」」
というものであれば、
「知識さえあれば、普通にとってきて、それを、毒薬化させる」
ということでの、
「毒の生成」
というのは、無理なことではない。
逆に、
「医療従事者」
であったり、
「血気工場関係者」



