三すくみの正体
「あの車両に乗らなければよかった」
であったり、
「違う車両に乗ってれば」
と、その時は、想像もしなかったことに、勝手な後悔というものがついてくるということになるのであった。
その日は、いつものように、
「後ろから二番目の車両」
に乗っていた。
それは、別に意識しているというよりも、
「自分の降りる駅の出口に近い」
ということが理由で、何も、
「朝の通勤ラッシュ」
の時間帯ではなくとも、この位置からの乗車ということになっていた。
だから、
「この日に限って」
ということではないので、
「後悔する」
という理由にはならないのだ。
ただ、後から思えば、
「この車両は危険だ」
ということに気づかなった自分が、
「浅はかだった」
と考える。
というのも、
「一番最後部というのは、女性専用車両」
ということである。
普通であれば、
「女性専用車両以外のどこに乗っても、女性と男性の比率は変わりない」
と思うだろう。
もちろん、
「その日によって、微妙に違っている」
というのは当たり前のことであり。
「もし、何かがあったとしても、自分が何かをしたわけではないのだから、それは不可抗力だ」
ということになる。
そして、その、
「何か」
というのを予知できるわけではないので、何かあっても、
「運が悪い」
としか言いようがないということになるだろう。
ただ、後から考えれば、
「ああ、後ろから二番目の車両というと、女性が多いというのも、理屈から考えれば、無理もないことなのかも知れない」
と感じた。
というのも、
「一番後ろが女性専用車両」
ということで、
「痴漢や盗撮」
を必要以上に嫌う女性は、
「必ず。この車両に乗る」
といえるだろう。
だから、
「男性は一人もいない」
といっても、たくさんの女性がここに集まるのだから、
「全員が乗れるとは限らない」
ということである。
しかも、女性同士の気遣いということから、男性のように、
「少々乱暴でも、押し込んで乗る」
ということまではしないに違いない。
だから、
「ある程度名で、満員となり、どの扉も入れない」
ということになれば、あぶれた人は、
「次の電車に乗る」
という方法を選ぶか、
「いや、これに乗らないと遅刻する」
と考えた人は、きっと、隣の車両に乗りこもうとするだろう。
そうなると、
「後ろから二番目の車両には、女性専用車両に乗り込もうとして乗れなかった人が、押し寄せるということになる」
それを考えると、その車両の男性は、
「女性のわがままから、自分がリスクを背負うことになる」
と考える。
男性とすれば、
「女性専用車両に乗ろうとしていたのであれば、後の電車に乗ってでも、こっちに入ってこないでほしい」
と思う。
それは、
「痴漢の冤罪」
という問題に限らず、
「そんな連中に入ってこられては、こっちの縄張りを荒らされた」
という気持ちになるのだ。
「何が、男女同権だ」
と言いたいのはここである。
「男女平等というのであれば、最初から、電車を、男性専用車両と、女性専用車両の二つにしてしまえば、何ら問題はないのではないか?」
ということである。
公衆の公共施設など、男女別々というものが多いではないか。
例えば。
「トイレ」
「浴場」
などがそうである。
それを、
「道徳的に、一緒にできないものだから、トイレや風呂場は分けてある」
というのであれば、
電車の中で、
「痴漢」
であったり、
「盗撮」
などの犯罪が起こることを、いったい警察はどう考えているのか?
ということである。
そもそも、
「男と女を同じところに入れるということになるわけなので、男とすれば、性欲から、女性を触りたいと思う人がいても、それは無理もないことで、いくら、いくらそれを犯罪だからいけないことだ」
と言ったところで、実際に、犯罪として起こるのだから、
「それなら、最初から、トイレや浴場のように、分けておかないのか?」
といえるのではないだろうか?
そもそも、一緒の場所に、獣を入れておいて、そこで、
「欲望に負けると犯罪だから」
と言ったところで、
「犯罪を未然に防ぐ」
という観点から考えれば、、
「別々の車両にする」
ということは、不可能だというのだろうか?
「だったら、最後尾が、女性専用車両」
というのは、中途半端ではないか?
といえるのではないか?
「どうして、男性専用車両」
というものがないのか?
ということである。
「これは、女性を守るだけではなく、男性を冤罪から防ぐため」
ということであるならば、
「これは確かに中途半端だ」
といってもいいだろう。
性と癒し
人間というものは、
「確かに、女性の自由を奪ったり、男としての地位や力を利用して、女性を凌辱するというのは、卑怯なことだ」
といえるだろう。
しかし、これは人間に限らず、
「種の保存」
ということから、本能として、
「性欲」
というものが備わっている。
つまりは、
「性欲がなければ、種の保存というのは、ありえない」
ということであるが、
「性」
というものは、太古の昔から、
「恥ずかしいもの」
と言われている。
「アダムとイブが、イチジクの葉で陰部を隠す」
ということからして、
「恥辱」
というものが、人間の本性というように言われている。
しかし、人間には、これも昔から、
「見るなのタブー」
というような、
「見てはいけないもの」
「開けてはいけない」
というものに対しての思いが強く、
「そう言われれば言われるほど、見てみたくなる」
というのが本性なのだ。
だから、
「人間らしいドラマ」
というのが生まれるわけである。
「おとぎ話」
しかり、
「神話」
しかりということである。
だから、人間として、目の前に威勢がいれば、
「惹きあってしまう」
というのは当たり前のことであり、それは、人間以上に。他の動物は強いものだといえるだろう。
ただ。あくまでも、他の動物は、
「種の保存」
ということのためだけに、その行為を行う。
しかし、人間は、そこに、
「恋愛感情」
というものがあることで、そこに、
「恥じらい」
であったり、
「他の人にとられたくない」
というような、
「嫉妬」
というものであったり、さらには、
「猜疑心」
というものがあることで、それが、直接犯罪に結びついてしまうことがえてして多いのである。
それが、
「人間らしさ」
「人間臭さ」
というものであり、
「自分たちに似せて人間を作った」
と言われる、
「ギリシャ神話」
というものにおける、
「オリンポスの神々」
というのは、実際には、
「嫉妬深い」
と言われ、
「実に人間臭い」
といってもいいだろう。
それが、人間の本性というものであり、他の動物にはないものではないだろうか?
ただし、
「本能としては、人間は弱いといえるだろう。それだけ、本性が強い」
ということだからである。
それを示しているのが、
「恥辱」



