三すくみの正体
というのが、よく言われることであるため、誰か一人が、
「正義のヒーロー」
ということで、
「犯人を捕まえた」
ということになれば、完全に、
「推定有罪」
ということになる。
ただ。問題は、
「犯人にされてしまえば、味方は誰もいない」
ということになる。
そもそも、他の人が分かっていれば、
「その人が真犯人を指摘するはず」
ということで、要するに、
「正義のヒーロー」
以外は、誰にも、その状況を説明できないということになるのだ。
そうなると、
「違う」
とも言えないし、
「目撃者が見た」
ということであるなら、
「間違いないだろう」
ということで、
「冤罪」
であるかも知れないことが、
「本当のこと」
にされてしまうのだ。
満員電車であれば、
「実際に触っていた」
としても、防犯カメラには映らない。
へたをすれば、
「その正義のヒーローが、本当は真犯人で、誰かを身代わりに仕立てれば、自分が安全だ」
ということになるのだ。
とはいえ、
「この手は何度も使えない」
なぜなら、
「こいつ、また痴漢の告発者になっている」
ということであれば、二度目まあでは、
「偶然」
ということになるかも知れないが、三度目は、そうはいかない。
さすがに、
「怪しい」
と思った警察は、その男を尾行し、検挙することだろう。
「分かってみれば、正義のヒーローが悪だったなんて」
ということで、警察とすれば、それだけでは済まないのだ。
少なくとも、
「複数の人を、冤罪ということにしてしまった」
ということになる。
「すみません」
では絶対に済まないだろう。
後になって、
「あれは冤罪でした」
とならなくとも、
「触ったかも知れない」
というだけで、まわりからは偏見の目で見られ、
「会社は、懲戒免職」
さらに、
「家族があれば、離婚問題」
それも当たり前のことである。
要するに、
「この人痴漢です」
と言われた瞬間、
「この人の人生は終わった」
といってもいいだろう。
「痴漢に仕立てられる」
というのは、それだけひどいことであり。
「冤罪」
というのは、警察としては、
「絶対に起こしてはいけない」
ということになる。
よく聞く話として、
「痴漢に間違えられた男が、絵に描いたように、会社を首になり、家庭が崩壊した」
ということになり、その家族が、世間からいろいろ言われ、
「その土地で住めなくなり、転居してしまう」
それにより、
「子供が新しい土地でいじめにあったり、いろいろなウワサで、その土地も追われたり」
などということで、
「結局。元家族というだけで、悲惨な運命をたどる」
ということになる。
「子供が親を恨み続ける」
ということもあるだろう。
また、
「親が冤罪だということが分かっても、親を許すことはできず、それと同時に、冤罪を作った、正義のヒーロー」
というものに、
「復讐する」
と考える人もいるだろう。
しかも、
「数十年経っても、その気持ちが変わらず、もし、そのヒーローを殺してしまった」
としても、
「誰が犯人なのか?」
ということは、なかなか、動機ということから分かるものではない。
実際に、
「その瞬間に、人生を完全に壊されてしまった男と、その家族」
というのは、
「死ぬまで恨みを忘れない」
ということになるだろう。
もちろん、そのヒーローも、ひょっとすると、自分が殺されたことに、
「どうして俺が殺されなければいけないんだ?」
ということを、最後まで分からずに死んでいったかも知れない。
もっとも、
「自分が冤罪を生んでしまった」
ということを、当時に後からでも知ったとしても、すでに、数十年も経っていれば、
「それが罪なんだ」
という意識が薄れているかも知れない。
それこそ、
「罪の意識はなくなってしまった」
ということもあるだろう。
それこそ、
「数十年も経てば、禊は終わっている」
と感じるのだろう。
しかし、
「冤罪を受けた本人」
であったり、
「その家族」
とすれば、
「そんなに簡単に忘れられては困る」
ということで、
「その禊は、棺桶の仲間でついてくる」
というものではないだろうか?
それを考えると、
「冤罪」
というものは、
「引き起こした側と、受けた側とで、相当な温度差がある」
といってもいいだろう。
しかも、それは、
「時間が経てば経つほど、どんどん広がっていく」
ということで、
「交わるどころか、温度差の激しさから、犯罪が起こりやすい土台にある」
といってもいいのかも知れない。
「美人局」
というものは、
「脅迫を受けるもの」
にも、それなりの問題があり、それこそ、
「犯罪ではないかも知れないが、犯罪を作り出した」
ということで、一応の責任はある。
ということであろう。
しかし、
「痴漢」
というものは、
「故意に触った」
ということであれば、問題であるが、
「触れてもいないのに、触れた」
と言われ、冤罪に仕立て上げられる可能性が高いと考えれば、
「なるほど、女性専用車両の存在」
というのは、必要不可欠といってもいいだろう。
それも、
「冤罪を生まない」
という意味で、必要なことである。
ここに一人、沢村三郎という男がいる。彼は、
「女性専用列車があるのであれば、男性専用列車があれば」
という思いでいっぱいだった。
それがかなわないのであれば、
「満員電車に乗ってしまった」
ということに対しての後悔の念が強い。
といってもいいだろう。
確かに、
「ずっとつり革を持っていたり、一番最後に乗り込み、手を窓にくっつけるようにしておけば、こんなことにはならなかった」
とも思った。
ただ、電車を最後に乗るというのは、正直リスクが大きい。
というのは、
「最後に乗り込もうとすれば、自分が押し込むようにしないと、乗り込めない可能性がある」
ということであり、
「それをしてしまうと、故意ではなくとも、女性の身体を触ってしまう」
ということになるからであった。
実際に、人から聞いた話として、
「一番最後に乗り込んだ時、自分が押し込もうとした人が、転んでしまって。そのせいで、障害を疑われ、警察で取り調べを受けた」
という人がいたということである。
その人は、
「濡れ衣」
ということで、難を逃れたが、
「濡れ衣を着せられるなんて、不運でしかない」
と、その時は、他人事のように、
「気の毒だ」
と考えたものだった。
しかし、それはあくまでも、
「自分には、そんなことは起こらない」
ということが確定しているかのように思うからで、実際に、ほとんどの人が、
「降ってわいた」
というような災いを、いちいち考えたりなどしていないに違いない。
それを考えると、
「結局、何かがないと起こってしまったことを顧みるということはないのだ」
ということで、
「後悔というものを、先にできれば、それに越したことはない」
ということで、
「予知能力のないこと」
それを、後悔だと感じているのではないだろうか?
だから、後になって。



