三すくみの正体
「今まで、童貞だと思ってきたことが、嘘だったなんてことないだろうな?」
という感覚だった。
これまでにも、
「デジャブのような感覚」
というものを何度となく感じたことがあった。
そして、そのデジャブというものを感じた時、実際に、
「過去に本当に味わったことだったんだ」
という思いを何度したことであろうか。
不思議なことだが、
「忘れてしまっていた」
ということになるのだろう。
しかし、
「自分が童貞だ」
ということに変わりはないだろうし、あくまでも、
「感覚」
ということだけで、
「性行為をした」
ということは、自分の中には、間違いなくないのだった。
「だったら、どうしてこんな感覚になったのだろうか?」
と考えた時、
「童貞喪失の寸前までいったことがあったのか?」
とも思ったが、
「どうしても思い出せない」
ということは、
「やはり、自分が童貞だということになるのだろう」
としか思えなかった。
そもそもデジャブというのは、一瞬のものである。
一瞬、
「過去にも同じ思いを」
と感じ、その過去に立ち返ろうとした時、自分の感覚は、すでにデジャブから抜けてしまっていて、思い出せなければ、それは、
「錯覚でしかない」
ということになる。
今まで、デジャブというものが、どれだけあったのかまでは思い出せないが、
「その半分でも、本当のことだった」
という感覚はない。
本当であれば、
「一度でも、本当のことであれば、デジャブは信じられる」
ということになる、
そう、
「デジャブというのは、100かそれ以外ということではなく。0かそれ以外といってもいいだろう」
つまり、
「有か無か?」
ということに尽きるものであり、一度でもあれば、それは、
「信じられるに値する」
といってもいいだろう。
それは、
「一人の人間の事象」
というだけではなく、
「人間の数と事象」
ということで、
「一人でも、デジャブに信憑性があれば、信じていいのではないか?」
とも感じられるということであった。
実際に、デジャブというのは、
「科学的には証明されていない」
と言われる。
「デジャブというのは、辻褄を合わせるということだ」
という人の話も聞いたことがある。
「自分の記憶の中の歯車が狂っているのを、辻褄合わせということで、記憶の一か所をいじるだけで、歯車がすべて元に戻る」
という程度であれば、
「元に戻そうとする、自浄努力が働く」
という、一種の、
「人間の中にある本能の一つなのではないか?」
ということであった。
また、もう一つ考えられることとして、
「前世の記憶が戻ってきた」
という考えである。
自分の前世がどのようなものだったのかは分からないが、
「本来は記憶を持ったまま、生まれ変わった」
と考えれば、
「前世説」
というのも分かるというものだ。
また、
「前世というものを否定する」
という考えがあるとすれば、
「デジャブ」
というのは、
「遺伝による、ご先祖様の記憶」
といってもいいだろう。
日本人のように、
「血族」
というものを大切に考えている人たちは、きっと、
「遺伝」
というものを考えるだろう。
宗教の中でも、
「輪廻転生」
を大切に考え、前世を肯定する考えであれば、
「前世説」
というものに従うのかも知れない。
しかし、どちらにしても、
「自分の中の過去の記憶」
ということではなく、
「遺伝」
ということにしても、
「輪廻転生」
ということであるとしても、
「そこには、宗教的な考え」
というものが張らんでいる。
「宗教を信じない」
という人がいるとすれば、あくまでも、
「デジャブは自分の記憶でなければおかしい」
ということで、自分の人生の中での、
「辻褄合わせだ」
と考えるに違いない。
沢村は、
「宗教は信じない」
と、かたくなに思っていたのだ。
夢
確かに、
「ご先祖様」
を敬うという気持ちは、ないわけではないが、それは、
「宗教として」
ということではなく、デジャブというものが、ご先祖からの遺伝だとは考えられない。
つまりは、
「ご先祖様という存在を、宗教と結びつけるのは、ご先祖様に対しての冒涜というものではないか?」
と考えるからであった。
デジャブをご先祖様の存在と結びつけるということも、冒涜に等しいと考えてしまうのであった。
ただ、沢村が考えたこの時のデジャブというのは、
「記憶ではなく、感覚だった」
ということだ。
「身体が覚えていた」
ということであり、その時思い出したことを、実際に、
「童貞喪失の儀式」
が終わった時、感覚として、昔を思い出した気がしたのだ。
だから、
「これは、儀式だ」
と、童貞喪失を感じたのだ。
正直、童貞喪失をめでたく行えたはずのその時、感覚的には、
「なんだ、こんなものなのか?」
と感じた。
それこそ、
「夢にまで見た」
といってもいい思いだったのに、実際に終わってみると、どこか味気なかった。
というのは、
「過去にも味わった」
という感覚が残っていたからだろう。
「気持ちいい」
ということが、そう思わせるところまではいかないといっていいほどに、あっさりとしていて、味気なさを感じさせた。
ただ。それは、その瞬間だけのことで、
「一度、その味気なさを通り越すと、身体の中に残った快感が、何度も思い出され、まるで、身体の地が逆流するかのようで、また、女性の身体を求めている自分がいる」
と感じさせるのだった。
「ひょっとして、これが、デジャブというものなのか?」
と感じさせるのであった。
それが、
「童貞喪失という儀式」
が、自分に何かをもたらせたのか、それとも、
「つかさ」
という女性が、
「自分の中で、その存在が大きくなっていったということなのか?」
自分でハッキリと分かるわけではなかったのだ。
それから、沢村は、定期的につかさに通った。
さすがに、
「毎月通える」
というほどお金があるわけではなかったのだが、それでも、
「2か月に一度」
くらいの割合で通っていた。
その間、自分でも、
「彼女を作ろう」
という努力をしてみたが、なかなかうまくはいかなかった。
そんな中で、
「どこかホッとしている自分がいる」
と感じていた。
というのも、
「2か月に一度の、つかさへの通い」
というのが、自分では、
「満足している」
と考えるからであった。
それは、
「彼女を作って、セックスをしても、つかさに感じたものと同じ、あるいは、それ以上の快感をえることができるだろうか?」
と考えたからだ。
もちろん、
「彼女がほしい」
という感覚は、
「セックスのためだけではない」
ということも分かっているつもりだ。
しかし、中学時代の思春期に、
「彼女がほしい」
と感じたのは、
「他の人に見せびらかせたい」
という思いがすべてだったということを、今さらのように思い出すことで、
「今になって、彼女に何を求めるというのか?」
ということを考えると、



