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腐食の後悔

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「このような、企業であれば、今まで何もなかったことが不思議なくらいだ」
 と吉岡は思ったが、それも、
「今まで吉岡が影に徹していたことで、表に問題が起こらなかった」
 ということであろう。
 世間的には、ダイイングエンタープライズという会社は、
「実に清潔な会社だ」
 と思われていることであろう。
 そんな会社が、
「不正蹴禁」
 などということを引き起こし、社会問題になったということで、かなり経済界に、多な衝撃をもたらしたといっても過言ではない。
 しかし、中には、
「吉岡という男」
 というものに、疑念を抱いている人がいたのも、事実であったが、そのあたりは、吉岡自身がわきまえてきて、
「自分に火の粉が降りかかってきた時、いかに、それを断ち切るか?」
 ということも心得ていたようだ。
 実際には、彼の中には、
「経験というものが、大きな影響をもたらしていた」
 というのが、正解なのだろうが、これだけではない。
「もって生まれた素質のようなものが彼にはあるんだ」
 ということで、それこそ、
「先祖に、さぞや高名な人がいたに違いない」
 と言われるほどで、
「そんな人物が、影の世界で、暗躍をしている」
 ということを知っている人は少ないのだ。
 しかし、
「あれだけ天才的な力を持っているのに、どうして、表に出たがらないんだ?」
 ということである。
「表に出たがらない」
 ということだけでも、
「矛盾している」
 と考えると、
「彼には、後ろ暗いところは何もない」
 という前提が、見る側にあることから。彼は、
「絶対的にまわりを欺くことに長けているんだ」
 ということになるだろう。
「会社における不正献金事件というのが発覚した時だって、誰も、彼が怪しいなんて思ってはいない」
 というほどに、信用があるのだった。
 そういう意味で、
「まわりを欺く」
 ということに関してこそ、
「もって生まれた天才的な才覚だ」
 といえるのではないだろうか?
 そもそも、
「人を欺く」
 ということを経験からできるとすれば、それは、必ず、誰かの後ろで、暗躍の役目を請け負っていなければいいけないだろう。
 そんな状態で、
「表に正義を振りかざす」
 ということは無理であり、結局は
「悪は悪でしかない」
 という結論を導き出すしかないといえるであろう。
 ただ、これは、彼の、
「人間性」
 というもとは関係ない。
 もっとも、
「彼の人間性」
 というのがどういうものなのか?
 ということを分かっている人がどこにいるというのだろう?
 本人ですら分かっていない様子なのに、それこそ、
「家族や親友」
 ということになるのだろうが、実際に、親としても、
「あの子の中学時代から、もう親には分からなくなってきた」
 と言われているようだし、親友というのも、
「小学生の頃以降、友達らしい友達はいない」
 と、自他ともに認める
「孤独な青年だった」
 ということである。
 ということは、
「中学以降から、まるっきり、人間が変わってしまった」
 といってもいいだろう。
 中学時代というと、
「子供が大人に変化を遂げる時期」
 と言われている。
 だから、
「成長期:
 であったり、
「思春期」
 などと言われ、大人になっていく過程が、皆同じということで、大人が指導できるのである。
 しかし、大人が、
「あの子はまったく分からない」
 であったり、
「パターンが読めない」
 というようになると、それだけ、
「皆と違うんだ」
 ということで、
「それだったら、友達がいないというのも分かる気がする」
 ということになるだろう。
「友だちなんて、いない方がいい」
 というやつがいるが、そういうやつは、
「苛め」
 というものに遭っていて。これまでに、誰一人として助けてはくれなかったという思いを抱いている少年なのではないだろうか?
「自分もまわりを信じられない」
 だから、まわりも、
「自分を信用しない」
 という、
「一度分からない」
 と感じてしまうと、
「誰にも信用されない」
 という、
「交わることのない平行線」
 というものを描き、その線が、お互いの正体を見せないということになると、交わることは本当にないといえるだろう。
 それでも、
「交わらないなりに、相手の性格はなんとなく分かるというものだ」
 しかし、
「吉岡少年の場合は、まったく分からない」
 ということは、
「一切の交わりを拒否している」
 といってもいいだろう。
 歩み寄りに際しては、片方にまったくその意思がない時は、絶対に交わることはないのだ。
 だが、
「歩み寄りをしない人がクラスメイトが50人いれば、せめて半分がいいところだといえるだろう」
 しかし、吉岡少年の場合は、それが。
「全員」
 ということになるのだ。
 誰に聞いても、
「あいつは何を考えているか分からない」
 ということになり、たとえ先生から、
「吉岡君も仲間に入れてあげて」
 などと言われたとしても、
「いやぁ、それはできない」
 と答えるだろう。
 そして、ほとんど皆が口をそろえていうとすれば、
「不気味でおっかない」
 という言葉が出てくるに違いない。
 つまり、
「何を考えているか分からない」
 という人が、近くにいるというだけで、
「これほど気持ち悪いことはない」
 ということである。
 そんな吉岡少年と近くにいなければいけないクラスメイトというのは、
「ある意味、気の毒だといえるかもしれない」
 ということであった。
「中学時代は、ただでさえ、自分のことだけで精一杯」
 という世代で、
「何とか自分の成長を理解しよう」
 と思う中で、
「仲間であるクラスメイトを見ていることで、自分を顧みることができる」
 と考えられるのに、一人でも、
「見てはいけない」
 と思える人がいるというのは、
「これほど気持ち悪い」
 ということはないのである。
 それは、クラスメイトだけに言えることではなく、
「親が見ても同じ」
 ということであった。
 実際に、親からも、
「あの子は、どこか気持ち悪い」
 と思われているとすれば、
「これほど気の毒な子供もいない」
 というものだ。
 昔、縁日などにあった、
「見世物小屋」
 などで、
「このかわいそうな子を見てやってください」
 とばかりに、人の好奇心を煽って、
「よし、見よう」
 と思い切った人は、まだ、その余勢を買って、まっすぐに見ることはできるが、
「うーん、好奇心はあるけど、そんなものを見てもな」
 ということで、
「半信半疑の状態」
 で見ると、次第に、その気持ちに慣れてくるようになり、実際に見る頃には、
「どうせ、こういう仕掛け何だろう」
 と感じるようになると、今度は、
「やっぱり思った通りだ」
 ということで、その仕掛けのちゃちさというものに、失望することになる。
 しかし、逆に、
「自分の予想が当たった」
 ということで、
「俺もやるじゃないか?」
 と考えることになるだろう。
 実際に、
「見世物小屋なんか見るんじゃなかった」
 と後から思うのは、
作品名:腐食の後悔 作家名:森本晃次