中途覚醒
などにも含まれていることから、
「子供のような純粋な気持ちが、その中には含まれている」
ということになるに違いない。
ということであった。
実際には、時間帯というものから、言われることもあった。
特に、
「夕方」
という時間帯は、その傾向が強いと言われる。
「風が止む」
と言われる。
「夕凪」
の時間、その時間は、
「魔物に遭いやすい時間帯」
ということで、昔から、
「逢魔が時」
と呼ばれ、
「交通事故が多発する時間帯」
と言われていた。
そもそも、
「逢魔が時」
などと言われるようになったのは、いつの頃からなのかということは、ハッキリとは分からない。
しかし、
「車社会というものが起こるはるか前」
ということだけは間違いない。
ということは、
「逢魔が時」
と呼ばれた時期は、別の何かが、そのような言葉と結びつく因縁を持っていたといってもいいだろう。
だから、
「逢魔が時」
という言葉がそのまま残ったわけで、
「交通事故の多発」
というのは、あとから、取って付けただけといってもいいだろう。
それでも、その言葉を、強引に結びつけるということをしたいと考えるわけで、このような、
「一番、曖昧だ」
といってもいい、そして、
「取って付けたような、都市伝説」
というものが言われるようになると、
「結局は、いろいろ言われてきた交通事故が増えてきた理由」
というものの信憑性が、
「どれにもない」
ということで、結局は、そのすべてを、
「オカルトとして考えていくしかない」
ということになるというのであろう。
ただ、実際には、
「科学的には証明されている」
と言われている。
これは、あくまでも、
「光の屈折」
ということによるものなのだろうが、
「夕方の、日が落ちる寸前というのは、光の屈折などにより、ちょうどこれくらいの時間になると、色を映し出す力が一番弱い」
ということで、
「モノクロに見えてしまう」
というのだ。
だから、どうしても、運転手が目の錯覚を起こしやすいということで、
「事故が多発する」
というのが、根拠だということであった。
科学的根拠があるのであれば、
「これ以上の説得力はない」
といえるだろう。
もし、
「交通事故多発理由」
というものを、最初に、この
「逢魔が時」
ということだと考えるならば、それは、
「他の理由を誘発するに十分だ」
ということで、
「逢魔が時」
というものが、まるで取って付けたようなものに見えてしまうのは、お門違いだといえるのではないだろうか?
一日の時間で、ちなみに、もう一つ、
「魔物に遭う時間」
ということで恐れられている時間帯がある。
こちらは、
「科学的根拠」
というよりも、どちらかというと、
「こちらこそ、都市伝説によるもの」
といえるであろう。
いわゆる、
「草木も眠る丑三つ時」
と言われるものである。
これこそ、
「都市伝説」
というよりも、
「本当の伝説:
というものが受け継がれているといってもいいだろう。
というのは、
「丑三つ時」
と呼ばれる時間帯は、
「午前二時前後」
ということである。
今のように、
「24時間営業の店」
というものがあるような、
「眠らない街」
などというのがなかった時代、その時間は、文字通り、
「草木も眠る時間」
ということであった。
それにひっかけた形になったのだが、
「丑」
というのは、そもそも、時間だけではなく、
「方角」
というものも、意味していた。
つまりは、
「丑三つ」
というものを、方角で示すと、時計でいうところの0時というものを、方角では、
「北側」
ということになれば、
「丑三つ時」
というのは、
「東北東の方角」
ということになるのだ。
そして、この
「東北東の方角」
というのは、昔から、
「鬼門」
と言われていて、
「鬼と出会う」
ということになる。
「夕方には、魔物と出会い、深夜には、鬼と出会う」
ということになる。
それも、
「かたや、伝説として、かたや、科学的根拠から」
というのは、実に興味深いことではないだろうか?
ただ、いくら科学的根拠があるとはいえ、実際に、
「交通事故が起こる時間帯が、まだ、車が開発される前から、恐れられていた」
というのは、本当にただの偶然なのだろうか?
それこそが、まさに、
「都市伝説たるゆえんだ」
といってもいいのではないだろうか?
交通事故
今回、問題となった交通事故が起こったのは、
「逢魔が時」
でもなく、
「丑三つ時」
でもなかった。
どちらかというと、
「丑三つ時に近い」
と呼ばれる時間帯で、深夜に差し掛かったくらいの、午後11時という、
「そろそろ日が変わる」
と言われる時間だった。
運転手は、仕事が終わり、営業先から帰る途中で、その日は、結構な遠乗りだったということで、だいぶ疲れていたということは、否めなかった。
だから、
「早く帰りつきたい」
という一心から、意識することもなく、自然とスピードは出ていた。
「交通事故というものを考えなかったわけではないが、時間も時間ということで、意識がもうろうとしていた」
といってもいいかも知れない。
ただ、時間帯が、深夜ということで、睡魔が襲ってこなかったといえばウソになるが、意外と疲れは、そこまではなかった。
というのは、
「夕方ほどはなかった」
ということではなく、
「一度疲れのピークを越えると、結構頑張れるものだ」
ということは、
「最近、残業が多い」
ということからも分かっていた。
「自分の会社は、残業手当を全額支給してくれるほどではないが、ブラックというほどでもない」
ということから、
「仕事へのやりがい」
というのは、それだけあるといってもいい。
そのおかげか、
「残業しても、そこまできつい」
という感覚はあまりなかった。
それでも、
「やりがいと疲れ」
というものが、リンクしないといっても、
「やりがいというものがあるおかげで、疲れを感じさせない」
ということが弊害になるということを感じさせらるとは、思ってもいなかったといってもいいだろう。
確かに、
「家に帰って寝るだけ」
というのはきついものだ。
「若い頃であればまだしも」
と言いたくなるくらいで、実際に、
「朝起きるのが、億劫になってきた」
といってもいい。
「目が覚めるまでの時間がかなり掛かっている」
ということを考えると、
「食事をする時間がない」
といってもいい。
ただ、以前から、
「朝食を摂る」
ということはなくなっていた。
というのも、
「妻が朝食を作ってくれるのだが、毎日同じようなものを食べている」
ということで、すぐに飽きてしまうと感じるのだ。
飽きが来るということは、
「次第に、見るのも嫌だ」
というくらいになってくるものであり、それは、
「食事に限ったことではない」
といえるだろう。
それが、
「一度、飽きが来る」



