中途覚醒
というものが、平和を守るために、
「その力を使って、国を治める」
ということになる。
しかし、人間というのは、
「力をもってしまうと、欲というのが生まれてきて、しかも、その力の象徴を、お金だ」
と考えるようになると、世の中は、独裁政治ということになるだろう。
だからこそ、
「上に立つものが、その力を領民のために使う」
ということであればいいのだが、
「自分たちの力を保つため」
というだけでなく。
「私利私欲に走る」
ということではいけないのだ。
確かに。
「封建制度」
という時代なのだから、
「領民の土地を守るため」
ということで、
「領主には、それなりの力を有してもらわないといけない」
ということになるだろう。
そうでないと、何かあった時、領民を守ることができないからである。
だから、領民に年貢を課すというのは無理もないことであるが、それが厳しすぎると、
「一揆」
などが起こり、せっかくの平和な時代の世が乱れてしまうということになる。
ただ。
「その一揆が起こった時などに、平和をもたらすための、力が必要ではある」
それが、
「身分制度」
というものであり、力の差を見せることも、政治的な政策としては、必要なことである。
つまりは、
「政治や平和」
というのは、
「きれいごとだけではままならない」
といってもいい。
「領主と領民の力の差があまりなく、もし領民が一揆に立ち上がったとすれば。それこそ、戦国時代に逆戻り」
ということになる。
一か所で一揆が起こると、それまで搾り取られていたと思っている農民や、さらには、そこに下級武士が加勢するとなると、
「政は立ち行かなくなる」
ということで、
「混乱の世」
となり、本当に、幕府を倒すということになるだろう。
幕末の
「倒幕」
というのは、そもそも、
「海外からの圧力によって、開国したことで、朝廷と幕府、諸藩との間の確執から、幕府に任せておけば、海外から侵略される」
ということから、近代社会の建設を目指す。
という考えになったのだ。
だから、
「団結も強かった」
ということ、さらには、
「下準備も整っていた」
ということになるのだが、
「政治というものをまったく分かっていない農民の一揆があちこちで起こったとすれば、一揆は成功したとしても、そこから先が先ゆかなくなる」
ということから、結果、
「ただ混乱を招いただけ」
ということで、変わってしまう歴史がどのようなものか、想像もつかないであろう。
そういう意味で、
「今の時代の歴史」
というのも、同じような考えといってもいい。
特に、
「今の時代」
というのは、
「過去の歴史を鑑みた」
としても、
「これほど、ひどい時代はない」
といってもいいだろう。
確かに、江戸時代のように、
「幕府体制を維持するため」
ということで、
「改易のあらし」
であったり、
「参勤交代」
「身分制度」
などの政策によって、
「諸藩の力をそぐ」
ということを行ったり、
「鎖国」
ということを行うことで、海外の勢力を駆逐したり、さらには、
「貿易を幕府が独占する」
ということで、諸藩の力を弱める。
ということである。
結果として、
「幕府が最大の力を持つ中で、諸藩は、幕府に逆らえないようにする」
というやり方にしかならないのだ。
なんといっても、
「幕藩体制」
というのは、
「中央集権」
ではないということで、れっきとした、
「力の差」
というものを示す必要があるということになるだろう。
そんな中でも、時代は、芸術であったり、学問などが庶民文化として発達をし、なんといっても、
「世界の首都の人口」
ということでは、世界有数だった江戸という街を支えていたのである。
しかも、
「鎖国」
というものを行っている中での、
「封建制度体制」
確かに、江戸時代中期あたりから、
「幕府の財政は逼迫する」
ということから、
「身分制度における、階級の差」
というものい、差別的な待遇が起こってきたのも事実であるが、
「その時々の政策に庶民は苦しめられながらも、文化は、育っていった」
といってもいい。
「浮世絵」
「洒落本」
「算術」
などというのは、
「日本独自の文化」
ということで、
「文化的なことから考えれば、時代は、近代になっていた」
といってもいいかも知れない。
日本文化をいかに海外の人がいつくしんだといってもいいだろう。
ひょっとすると、
「日本文化こそが、耽美主義だ」
と思っていたのは、
「当時の外人だったのかも知れない」
しかし、政治家は、そんな日本の文化に関係なく、どの時代においても、
「私利私欲に走る」
というものだ。
考え方によっては、
「海外の政治家の方が、ひどいかも知れない」
といってもいいだろう。
「独裁政治」
というものから、頻繁に、
「クーデター」
というものが起こり、
「絶えず、内乱が起こっている」
という国も少なくない。
それこそ、
「日本における戦国時代」
のようなものかも知れないが、少し違っているといってもいい。
ただ、共通していえることは、
「中央政権」
というものが、力が弱く成れば、地方が強くなり、それぞれ地方で起こったいさかいから、
「戦国の世」
というものが生まれるのだ。
特に戦国時代が起こったその時代は、
「元々、諸大名の力が強い」
という中で、
「足利幕府」
が中央にいたわけで、
「三田市法軍義満」
は、その権勢を確実なものにするために、
「公家に近づいた」
というわけだ。
やり方とすれば、
「平清盛」
に近いやり方だった。
というのは、
「公家化することで、天皇に近づき、官位を得ることで、天皇に近い権威を手にすることで、幕府の力を盤石にしよう」
と考えたのだ。
しかし、これは、
「平清盛」
の時代でも分かっていたことで、
「結局、自分たちの力が衰えれば、そもそも、力のない官位と、家の名前だけで権勢をふるってきた公家の中で、埋もれてくることになる」
というのだ。
つまり、
「絶対的な幕府内の権力を持った自分が死んでしまう」
ということになれば、
「あとがよほどしっかりしていないと、どうしようもない」
ということだ。
なんといっても、
「いくら武家の棟梁である将軍家」
といっても、公家の中では下っ端ということになる。
だから、足利幕府の権勢は、
「義満の時代に最盛期を迎えた」
ということであるが、それ以降は、まったく下り坂だったといってもいい。
諸大名による内乱が続き、さらには、
「将軍家王位継承問題」
というのが絡んだことで、起こってしまったのが、
「応仁の乱」
という内乱であった。
「京の町で11年という長きにわたっての戦が続く」
ということで、
「京の町は焼け野原」
となったことで、
「幕府の力は地に落ちた」
ということである。
そもそも、応仁の乱が、諸大名を招集しての戦だっただけに、
「国元を留守にする」



