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中途覚醒

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 と言われていたものが、
「大人の世界でのこと」
 ということになり、逆に、
「大人の世界だった」
 というものが、今では子供の世界でも行われる。
 ということになり、
「大人と子供の世界」
 とで、その差が曖昧になってきたといってもいいだろう。
 だから、
「子供の頃の記憶が、就職してからも残っている」
 ということがあったりする。
 それは、どれだけ時間が経っても、変わるものではない。特に、
「時代というのは繰り返す」
 という人がいるが、最近では、
「まさにその通りだ」
 と考えるようになった。
 少年の頃にはあまり感じなかったが、中学時代くらいから、
「時間や時代を繰り返している」
 と思うようになった。
 この感覚を感じるのが、早いのか遅いのか分からないが、
「遅かれ早かれ分かることだ」
 と感じたのは、高校生になってからだった。
「やはり、少し早い気がする」
 と感じたのは、
「小学生までであれば、まだまだ子供、このような感覚を子供が感じるわけはない」
 と思ったからだ。
 それは、中学時代に訪れた、
「思春期」
 というものが、自分が意識している中で、
「大人への階段」
 と言われるが、まさにその通りだ。
「精神的にも肉体的にも大人になる」
 ということだからだ。
 正直子供の頃から、
「大人になる」
 というのは、最初から分かっていたことだとは感じていたが、
「精神的なものと、肉体とでは、ギャップがある」
 と思っていた。
 というのも、
「身体が先で、あとから精神的なものだと思ったのだが、それこそ、中学時代は、背伸びをする時代」
 と言われていると感じたからだ。
 肉体的に先に成長することで、気持ちが追い付いてこない。だから、余計に、性というものに歪んだ興味を持つのだと考えていたのだった。
 それは間違っていなかったようで、
「身体が先に大人になった」
 ということで、身体がムズムズしてくるのに、その正体が分からない。
 教えてくれるのは、
「同郵政の早熟な連中」
 ということで、その顔は、厭らしさに歪んでいる。
 実際に、そんな身体だけが発達したことで、自分を嫌になった時期があった。
「顔にできるニキビ」
 であったり、女の子を見ていて、厭らしい気持ちになっている自分に対して、何とも言えない、気持ち悪さを感じるのだった。
 だが、我慢していると、ぞくぞくしてくることで、そんな自分が厭らしく感じるくせに、逆に、いじらしくも感じる。
 そんなことを感じていると、
「いつの間にか、まわりから苛めを受けている」
 というように感じたのだ。
「苛めを受けていて、その自覚がないなんて」
 と思うのだが、まわりを見てみると、
「苛めがこんなにも流行っているなんて」
 ということで、
「世の中には、いじめっ子か、いじめられっ子しかいないのか?」
 と思うくらいだった。
 今までは、
「いじめっ子は、自分を狙っている」
 と思っていたので、いじめっ子に対しては、意識があったが、それ以外は、
「皆、中立なんだ」
 と思い込んでいた。
 それは、
「いじめられっ子」
 というのは、
「自分しかいない」
 と思っていたからだ。
 他にいじめられっ子がいるなどと思わなかったのは、
「いじめられっ子」
 というのは
「かわいそうな立場だ」
 ということで、
「自分だけが、悲劇のヒーローだ」
 と思うことで、自分を納得させたかったに違いない。
 そんな風に感じていたことで、
「いじめっ子以外は、傍観者でしかない」
 という思いを抱いていた。
 もちろん、
「そんなことはない」
 と思っていたが、それも、半信半疑であり、しかし、
「いじめられっ子は圧倒的に少ない」
 と思っていた。
 しかし、自分が
「いじめられっ子だ」
 という意識が強くなれば、今度はまわりを冷静に見ることができるようで、冷静に見ていると、
「いじめられっ子って、意外と多いんだ」
 と感じるようになったのだ。
 しかし、その思いが、自分の中に、少しおかしな感覚を生むようになったわけで、それが、
「世の中は、正悪のどちらかしかいない」
 という、極端な思いを抱いたまま、大人になったのだった。

                 群雄割拠

 この感覚は、
「勧善懲悪」
 ということからきているということは分かっている。
 しかし、この
「勧善懲悪」
 というのは、
「正義を助け、悪を懲らしめる」
 という、人間の感覚でいうところの、
「正義」
 というものである。
 人間には誰にでもあるというもので、特に、日本人であれば、この、
「勧善懲悪」
 というものだけではなく、もう一つ、
「判官びいき」
 という考えがある。
 これは、
「弱いものをひいきする」
 という考えで、平安末期のヒーローとして、
「戦の天才」
 と言われる一人として有名な、
「源義経」
 という人がいる。
「牛若丸」
 といえば、知れない人はいないだろう。
「弁慶」
 との話で有名であるが、この、源義経という人物は、
「戦の天才」
 ということで有名であるが、それよりも、
「悲劇のヒーロー」
 という意味での方が強いのではないだろうか。
「兄の頼朝は、長男ということもあり、源氏の棟梁ということで、しかも、当時の武士の中心ということで、立場は、あくまでも、元首」
 というものであった。
 しかし、弟の義経は、あくまでも、
「兄の頼朝に従って、平家を追討する」
 ということを、
「人生の使命」
 ということで、
「戦における第一線での活躍」
 ということが求められ、しかも、
「天才的な軍略を巡らせる人物」
 ということで、これこそが、
「適材適所」
 ということだった。
 実際に、いろいろな伝説を残すことで、念願の、
「平家追討」
 というものに成功し、
「これで、源氏の天下」
 ということで、
「いよいよ頼朝の才覚」
 という時代になってきたところで、義経が、
「頼朝から言われていたことを守らなかった」
 という問題が起こった。
 というのは、
「頼朝の許しを受けずに、勝手に朝廷から官位をもらってはいけない」
 といわれていた。
 これは、
「朝廷とは別の政権を鎌倉に作った」
 ということで、朝廷から直接官位をもらうと、それは、
「頼朝の配下」
 ということではなく、
「直接。朝廷の配下」
 ということになるのだ。
 確かに、一人二人では、それほど問題にはならないだろうが、あくまでも、
「けじめ」
 というものがあるというもので、一人が禁を犯せば。
「あいつは許されて、俺はダメだというのか?」
 ということになり、収拾がつかなくなってしまう。
 そうなれば、鎌倉の威信は失墜することになり、
「それこそが朝廷の狙い」
 といえるだろう。
 だから、頼朝は、
「きつく禁じた」
 ということである。
 しかし、義経とすれば、
「一人くらい」
 という思いと、
「俺が手柄を立て、朝廷からねぎらわられることで、鎌倉側も、誉であろう」
 と思ったのだろう。
 あくまでも、
「鎌倉の代表」
 ということでの考えだったに違いない。
 そして、頼朝に、
「弟に対しての、嫉妬」
作品名:中途覚醒 作家名:森本晃次