昭和からの因果応報
「隣に誰が住んでいるか?」
など、誰が気にするというのか。
近所づきあい」
などというものはほとんどなくなっている時代なのである。
昔から、町内で、年に二度ほど、
「清掃の日」
ということで、町内会が主催となって、
「朝の一時間くらい、町内の掃除をする」
というのが決まっていたりする。
しかし、実際には、
「集合住宅に住んでいる人は誰も出てこない」
というのが当たり前になっている。
出てくるとすれば、
「牢番として決まっている、その年の組長」
であったり、
「子供が町内の子供会などに参加している」
ということで、掃除に出てきている人たちとは、
「その子供会で知り合いだった」
ということで、
「無視はできない」
ということから、
「しょうがないから出席する」
という人だけであろう。
中には、
「皆一生懸命に掃除をしているのを横目に見ながら、家族で車に乗って、レジャーに出かける」
というような、
「露骨なあざとさ」
というのを見せる人もいる。
「まるで喧嘩を売っているみたいだ」
と、若い人は思うかも知れないが、主催者であったり、毎年参加している人たちから見れば、
「今の若い人はあんなものよ」
と冷静だったりする。
それを思えば、ゾッとする気持ちになる人も少なくないだろう。
というのは、
「穏やかに分かったかのように冷静に見ている人ほど、あざとい人が助けを求めてきても、平気で見捨てるのではないか?」
と思うと、
「本性がどこにあるのか?」
ということを感じてしまうといってもいいだろう。
「そういう意味で、昔から仲の良かった人たちが、町内会の寄り合いなどで、若い頃は、その体裁や、立場上ということで形の上だけで仲良くしていた人たちも、年月を重ねるごとに、助け合いの気持ちになってきた」
ということになるであろう。
殺害現場となったところは、前述のとおり、
「年齢が高い、老人ばかりが残っているところ」
ということで、それだけを聞くと、
「横のつながりがある」
と思われるかも知れないが、
ほとんどの人は、
「孤独老人」
ということで、隣との交流もほとんどない。
中には
「いつ死んだっていい」
と思っている人も多く、本来であれば、
「死への準備」
ということで、断捨離などをする人がいてもおかしくないが、ほとんどの人は、
「死んだら死んだ時」
ということで、
「死んだ後のことまで考えない」
と思っていて、
「まったく整理も掃除もしていない」
という人も多かった。
だから、
「ゴミ屋敷」
と呼ばれるところに住んでいる人も数人いて、だからこそ、
「市の保安員」
という人が、定期的にその安否を確認するようになっているということであった。
それがいつから始まったのか分からないが、これは、あくまでも、若い職員の勘ということであったが、
「関西で大地震」
というものがあったあの時からではないか?
ということであった。
確かに、あの時から、
「避難している人が、仮設住宅に住み始めてから、孤独死というものが結構あった」
ということであった。
集合住宅だから、隣はすぐに分かりそうなものなのに、
「死んでから数日経って発見された」
ということが当たり前のようになっているということであった。
時期的に、
「被災地でなくても、孤独死という問題が、全国的に問題になった時期」
といってもよく、
「市町村から、一人暮らしの老人に、毎日のように、安否確認を行う」
ということが行われていたのが、ちょうど、震災から少ししてからのことだった。
「災害というものは、一瞬にして、何もかもを奪ってしまう」
ということであり、しかも、
「誰が悪いというわけではない」
ということで、
「恨みの向けどころもない」
ということから、
「一方的なストレス」
というものが、勝手にたまってしまうということになるのであろう。
そういう意味で、
「人間生きていると、怨恨というものではない、それ以外の思いから、復讐したいという感情を抱く人も少なくないだろう」
というのは、
「逆恨み」
というものであるが、それも、
「不安のもって行き所がない」
ということで、内にこもることが多くなり、
「精神疾患」
という形で、
「精神的に引きこもってしまう」
という人が多くなるといえるのではないだろうか?
今回の殺人というのも、
「そういう感情を持った人の歪んだ性格が、性癖となって表れたことで、犯罪というものを、想定外のものにする」
ということになるのかも知れない。
今の時代で、精神疾患というものを持っている人は、相当数いるという。
それが社会問題となったことで、
「ハラスメント」
というものの撲滅が、今の時代の大きな問題となるのだった。
「ハラスメント」
というのは、
「嫌がらせ」
といってもいい。
「セクハラ」
「パワハラ」
「モラハラ」
などと言われるものがそうであり、よく言われるのが、
「会社の上司と部下の関係」
というのが多かったりする。
しかし、精神疾患の原因には、他にもいろいろあり、特に、
「学校におけるいじめ問題」
というのもその一つだろう。
これは、会社でいえば、
「パワハラ」
といってもいいだろう。
「パワハラ」
というと、
「上司が、その立場で、部下に対して、理不尽な指示であったり、命令をする」
という場合のことである。
苛めというのも、
「立場というものを使う」
というわけではなく、
「人数というもので、相手を威圧する」
というやり方であった。
誰もが、
「大人数から苛めに遭ってしまうと、耐えられるものではない」
といえる。
これは、会社における
「立場上」
ということと似ているだろう。
要するに、どちらも、
「逃げ場がなくて、追い詰められる」
ということだ。
そうなってしまうと、
「会社であったり、学校で、一人孤立してしまい、引きこもってしまう」
ということが当たり前になるのであった。
昔の苛めというのは、
「虐められる側にも理由がある」
ということで、そもそも、
「苛め」
という言葉は存在せず、
「いじめっ子」
「いじめられっ子」
ということで、それぞれの立場をそれぞれの方向から言われることが多かった。
そうでないと、解決には至らないといってもいいことであろう。
警察のその後の捜査で分かったことというと、まず、
「刑部という男を恨んでいる人は数人いる」
ということであった。
しかし、
「そのほとんどは、同じ事件がきっかけになっていることであり、しかも、話によると、曖昧なことが多い」
ということであった。
だから、
「刑部さん本人は、まさか自分が恨まれているという意識はなかったかも知れないということで、そのことで却って、恨みを持っている連中から、余計な恨みを買ったのではないか?」
というのが、話をしてくれた人の言い分だということであった。
「どういうことなんだ?」
と捜査本部長が聞くと、



