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昭和からの因果応報

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 ということで、諦めているという人も少なくなかっただろう。
 今の時代であれば、
「昭和の捜査や取り調べなど、ありえない」
 ということが多いだろう。
 特に昭和の刑事ドラマなどで、取調室で、
「容疑者に強引に白状させよう」
 ということから、
「ネクタイを持って首を絞める」
 あるいは。
「照明を顔に当てて、強引に話させるようにする」
 などということが平然と行われていた。
 もっとも、
「戦時中における特高警察」
 のように、
「あからさまな拷問」
 ということが当たり前のように行われていた時代とは違う。
 当時は、
「治安維持法」
 などというものがあり、
「反政府組織」
 であったり、政府や軍に逆らう組織」
 というものを相手にする専門である、
「特高警察」
 なるものがあったことで、さすがに、
「拷問」
 というところまでは無理があるが、その流れを汲んでいるという捜査方法が、
「昭和の時代」
 には、脈々と受け継がれてきたといってもいいだろう。
 さすがに、
「戦前を知っている」
 という刑事がいなくなると、
「だいぶ、組織捜査」
 というものから、
「民主警察」
 ということに変貌してきたのだろうが、昭和の時代は、まだまだ、戦前からの影響が、まだまだ残っていたといってもいいだろう。
 それが、
「平成から令和」
 ということになると、社会情勢というものが、大きく変わってきた。
 なんといっても、
「バブル経済の崩壊」
 というのが大きなことであり、
「夢を見る時代」
 というのが、
「よくも悪くもなくなってきた」
 といってもいいだろう。
「夢」
 というものが、
「実態のないもの」
 ということであれば、
「夢そのものがバブル経済だった」
 ということであり、それが、
「泡のように、砕けて消えた」
 ということになれば、求めるものは、
「リアルな現実」
 ということで、
「待ったなし」
 という世情だったといってもいいだろう。
 そんな時代において、経済の大混乱とともに、それまでの、
「当たり前」
 というものが、
「当たり前」
 ではなくなってきた。
 それまで、
「神話」
 のように言われてきたものが、ことごとく崩壊していく。
「銀行は潰れない」
 などと言われていたが、最初に破綻したのは銀行だった。
 だからこそ、
「経済の根底を支えてきた銀行だから、その銀行が破綻したのも、考えてみれば当たり前」
 といってもいい。
 そもそも、
「融資をして、その返済に利子を掛けることで、利益を得ていた銀行」
 ということで、その融資額を適正な額で見積もるということが、銀行営業の基本だったものが、
「融資額がどれだけ増えても、必ず返済される」
 という、まるで、
「バブルの亡霊」
 といってもいいような桃源郷を夢見ていたとしか思えない暴挙がまかり通っていたのであろう。
 そんな、
「無限の利益」
 などというのがあり得るわけではない。
 それこそ、
「諸行無常」
 という言葉の存在などないと言わんばかりであった。
 しかし、
「事業を拡大すればするほど、大きな利益が生まれる」
 ということで、バブル経済の間は、
「危険なリスク」
 というネガティブな発想よりも、
「儲けが目の前にあるのに、みすみす逃すというのはもったいない」
 というポジティブな発想という、
「ポジティブとネガティブ」
 という発想を時代とともにはき違えたことが問題だったのだ。
 要するに、
「時代が、感覚をマヒさせた」
 といってもいいだろう。
 しかも、誰一人として、
「バブル崩壊」
 というものに気づかず、全員が全員、マヒした感覚に、酔っていたのである。
 今までの歴史というものから考えてみれば、分かりそうに思うのは、結局は、
「結果論」
 というものでしかないからであろうか。
 考えてみれば、経済の流れを見れば、
「必ず、高度成長の後に、不況がやってきて、その後に、また高度成長がやってくる」
 という、循環を繰り返していた。
 これは、
「ブーム」
 のようなものと似ていて、
「山のようなカーブを描く」
 というラピッドを繰り返していたのだ。
 それを考えると、
「本来であれば、好景気の時ほど、下り坂になる瞬間をしっかりと見極め、その時、いかに、最初に対策を打てるか?」
 ということになるだろう。
 不況に入った時、
「絶対に、被害を受けない」
 ということはありえない。
 それだけに、
「いかに、被害を最小限とするか?」
 ということで、
「例えば、貯えをもっている」
 であったり、
「不況になった時、どのような変化が、一番、被害を最小限に食い止められるか?」
 などという、
「先見の明」
 というものをいかに持つことができるか?
 ということになるのだ。
 そんな時代において、時代は、バブル経済から、その崩壊、そして、
「ゆっくりであるが、落ち着きを取り戻した時期があり、今度は、その時期が、世界的な不況」
 というものから、日本の復興が止まったりした。
 ある意味、
「10年から、15年に掛けてくらいの周期がある」
 ということになっているのだ。
 だから、
「10年前というと、ちょうど、経済が落ち込みかけた時くらい」
 ということで、
「社会も、微妙ではあるが、変化を続けている時代だった」
 といえるだろう。
 そんな時代において、起こった犯罪だったが、今から思えば、
「小さな犯罪が無数にあり、さらに、その中で、時代ならではというような犯罪もあり、混沌とした時代だった」
 といってもいいのではないだろうか?
 そういう意味で、一つの殺人事件など、関係のない人から見れば、
「取るに足らない」
 と思われた時期だったに違いない。
「関心のない人が大多数で、関心のある人は、事件というものを、自分に関係のないことではない」
 というような感覚だったに違いない。
 この事件は、そんな頃の殺人事件だったのだ。

                 自首

 マンションがどんどん立ち並んできたのが、
「今さらのように」
 といえる時期なのだが、そう感じさせるというのは、
「それだけ、まだ、都心部に土地が余っていた」
 といってもいいだろう。
 といっても、バブルの時期には、土地というと、
「転がすだけで、大儲け」
 と言われ、都心部になればなるほど、めちゃくちゃ高額の値段となっていたのだ。
 しかも、
「実態のないもの」
 ということなので、どんどん根が吊り上がることで、
「買った時は、高額で買い」
 それでも、
「うなぎのぼりに土地の値段が上がっていく」
 ということで、
「天井の見えない高価」
 になるということで、
「最高値で土地を売る」
 という欲望から、結局は、売る機会を失ってしまい、土地の値段に陰りが見えた時も、
「いやいやまだまだ上がってくる」
 ということから、売り時を逸してしまい、
「あとは、根が下がるだけ」
 ということが分かっているのかいないのか、
「思い切ることができなければ、すでに利益の分岐点を下げてしまう」
 という状態に陥ると、
「売る勇気がない」
 と言えばいいのか、結局は、
作品名:昭和からの因果応報 作家名:森本晃次