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昭和からの因果応報

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「警察の管轄外」
 などということで、事の重大性を、
「十把一絡げ」
 ということにして、個別に見ようとはしない。
 そのくせ。事件が起こると、ちょっとした関係者というだけであっても、その人のプライバシーに、土足で上がるというような真似をすることが、往々にしてある。
 それを指摘でもすれば、
「これは殺人事件なんですよ」
 といって、それこそ、
「事件の大小」
 を勝手に決めつけて、
「重大事件だから、市民が警察に協力するのは当たり前だ」
 と言わんばかりである。
 それが警察というものだ。
「通り一遍の捜査になる」
 というのも、
「捜査本部」
 というものができると、
「組織捜査」
 ということになる。
「管理官」
 という、
「事件捜査の責任者」
 を中心に捜査が行われる。
 つまり、
「管理官の捜査方針が、何よりも優先される」
 ということだ。
 しかし、最終決定は、捜査会議で決められるもので、それに逆らうことは許されない。
 それは、管理官であっても同じことで、
「単独捜査」
 でもしようものなら、
「捜査本部から追い出される」
 ということになり、そうなると、
「捜査権はないに等しい」
 といってもいい。
 完全に、
「命令違反」
 ということで、後になって、
「査問会議」
 ということになるだろう。
「へたをすれば、懲戒免職にもなりかねない」
 というもので、もちろん、
「捜査方針に従わなかった」
 ということで、事件解決において、
「重大な問題となった場合」
 ということになるだろう。
 そんなことは、最近の刑事ドラマなどを見ていればよく分かる。
 昔であれば、そういう
「警察の内情」
 のようなものは、ブラックボックスだったことだろう。
 特に、
「警察のような公務員」
 というのは、上が必至になって隠したりしたものだ。
 しかし、最近では、よくテレビで、警察の内情に近いものを、さらに、
「勧善懲悪」
 という形でやっている。
 当時とすれば、
「トレンディドラマ」
 などというものが流行った時代で、その頃から、
「警察の捜査」
 であったり、実情が、大きく変わっていった時なのではないだろうか?
 特に。
「刑事ドラマ」
 というのは、昭和の頃から結構あった。
 だが、ここ数十年くらいのドラマとは結構違っているといってもいい。
「昭和の刑事ドラマ」
 というのは、
「刑事ドラマに限らず」
 といってもいいが、
「よくも悪くも、昭和の時代」
 といってもいい。
 言い換えれば、
「泥臭い時代」
 といってもいいだろう。
 昭和の時代といっても、
「テレビ放送が始まってから」
 ということになれば、
「昭和40年代以降くらい」
 といってもいいだろう。
 そもそも、テレビ放送というのは、
「東京オリンピック開催」
 というものに照準を合わせて、
「各家庭に一台」
 というものを目指していたのだ。
 あれが、
「昭和39年だった」
 ということで、ほぼほぼ、テレビ放送が定着してきたのは、
「昭和40年代だった」
 といってもいいだろう。
「テレビ放送が普及してきた黎明期から、刑事ドラマというのは、人気の番組だった」
 という。
 実際には、40年代後半くらいから、シリーズとして、結局、長期放送となったテレビ番組が、
「昭和の刑事ドラマ」
 ということで定着したといってもいいだろう。
 それは、
「平成・令和」
 の刑事ドラマとはまったく違っている。
 そもそも、当時の世相というのが、
「東京オリンピック」
 あたりから変わってきているということも影響しているのかも知れない。
 特に。
「青春もの」
 というものであったり、
「スポーツ根性もの」
 という、
「汗や努力」
 などというものが美しい。
 ということで、刑事ドラマなどでは、
「証拠収集は、足で稼ぐ」
 あるいは、
「容疑者の自白」
 というものが、最優先された時代だったということから、
「落としのプロ」
 と言われるような、
「取り調べにて、犯人を自白させる」
 ということに長けていた人は、
「優秀な刑事」
 というイメージを植え付けてきたものだった。
「熱血根性」
 ということからなのか、取り調べというのも、
「どこか強引」
 ということで、それこそ、
「恐喝」
 といってもいいようなものが行われていたといってもいい。
 要するに、警察の取り調べというのは、
「飴と鞭」
 というものだということだ。
 しかし、今の時代は、そんなものは通用しない。
 なんといっても、今までで一番最優先とされてきた自白というものが、弁護士によって、
「警察の強引な取り調べによって、自白を強要されたから」
 ということで、裁判においてひっくり返されることがあるからだ。
 実際に、そこまでの取り調べでなくとも、
「依頼人の財産と自由を守る」
 というのが、一番の存在意義である弁護士とすれば、時には、
「真実に目をつぶってでも、依頼人を守る」
 ということになるのだ。
 そうなると、
「法廷戦法」
 ということで、
「最初は、警察のいう通りにして、警察の誘導で自白をさせられたという形にさえしておけば、どうにでもなる」
 ということから、
「警察が、起訴しやすいように、こちらから素直に自白するという形にしておけば、警察は、有頂天になって送検することになるわけで、そうなれば、あとは、裁判に入ると、法廷でいくらでも、ひっくり返すことができる」
 というのである。
 つまりは、
「昔は、自白が、物証と同じくらいの力があったが、今では、警察からの強引な取り調べということもあるので、その優先順位は、かなり低くなった」
 といってもいいだろう。
 それが、
「法廷操作」
 というもので、
「検事と弁護士の戦いだ」
 といってもいいだろう。
 実際に、警察というのも、結構変わってきた。
 取り調べ一つをとっても、
「強引な取り調べはもちろんダメだし、自白強要という意味での、泣き落としもダメである」
 昭和の頃の、
「取調室の定番」
 ということで、
「かつ丼食うか?」
 というのがあったが、今はそんなことはない。
「留置した場合や、長時間に及ぶ事情聴取などで、食事の時間をまたぐ時だけ出されるお弁当であったり、水分補給のための水」
 くらいしか与えられないだろう。
 取り調べを受けているといっても、犯人だということにはならないのだ。
「重要参考人」
 ということで、
「限りなく犯人に近い存在」
 ということであって、あくまでも、
「容疑者」
 ということであり、犯人ではないのだ。
 しかも、
「いくら犯人だ」
 ということが確定したとしても、基本的人権が保障されている以上、それに順守する対応でなければいけないということである。
 それは、
「時代背景」
 というものにもある。
 昭和の時代も、
「世間一般の風潮」
 ということで、
「熱血青春もの」
 であったり、
「スポーツ根性もの」
 などという考え方が、捜査や取り調べにも影響していて、
「理不尽だ」
 と思いながらも、
「こんな時代だから」
作品名:昭和からの因果応報 作家名:森本晃次