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昭和からの因果応報

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「死刑になるかも知れないが、一かバチか、証拠を隠滅して、無罪を勝ち取るために、放火する」
 ということになるであろう。
 それなのに、
「放火というものは、一向になくならない」
 と言われる。
 それは、
「放火というものを、遊びかゲームのように考えている」
 という輩がいたり、
「放火をすることで、自分の中のストレスを発散させる効果がある」
 ということで、罪の意識を一切考えていないと思えるほどのことをやってのけるのであろう。
 それこそ精神的には、
「何でもできると思い込む、躁状態なのかも知れない」
 そういえば、
「暴君」
 と呼ばれる人であったり、
「芸術家」
 と呼ばれる人が、己の私利私欲のためなのか、
「街に火をつけた」
 ということがあったらしい。
 これを、
「芸術における美」
 というものを、
「倫理であったり、モラルなどというものに比べても、最優先となる」
 ということから、
「耽美主義」
 と呼ばれるものがある。
 放火という感覚は、この、
「耽美主義に近い」
 というものなのかも知れない。
 耽美主義」
 というのは、いわゆる、
「猟奇犯罪」
 と呼ばれるものと、
「背中合わせだ」
 といってもいいのではないだろうか?
 戦前戦後の、ミステリー小説が、
「探偵小説」
 と呼ばれていた時代。世相の混乱などから、
「陰湿な犯罪」
 というものを描くものが多かった。
 もちろん、
「トリックや、謎解きに特化した探偵小説」
 ということで、
「本格派」
 と呼ばれるものが流行ったが、同じ時代に、
「耽美主義」
 であったり、
「猟奇犯罪」
 のたぐいなどを描いたものとして、
「変格派探偵小説」
 というものがあった。
「耽美主義」
 だけではなく、
「異常性癖」
 と呼ばれるものが描かれたものである。
「耽美主義」
 というものが、
「異常性癖」
 というものに結びついてくると考えると、
「耽美主義は、それだけで、一つのジャンルを形成するといってもいいかも知れない」
 と感じるのであった。
 その放火犯は捕まってはいないというが、
「まさか、今回の老人における精神疾患というものと、どこかで結びついているのではないか?」
 と考えられる。
 今回の刑部に対しての殺人事件であるが、
「これも、どこか耽美主義的なものを感じる」
 と、桜井警部補は感じていた。
 普通は逆であり、
「耽美主義的な様相が見えるからこそ、連続殺人というものを発想するのだ」
 ということである。
 桜井警部補は、確証があるわけではないので、ハッキリと口にすることはなかったが、
「今回の犯罪は、どこか連続殺人の気がする」
 ということで、
「実際に他で起こった犯罪の、続きということになるのか?」
 それとも、
「こちらの犯罪が、すべての引き金になるというのか?」
 ということであった。
 桜井警部補は、
「普通の考えかたは、誰にでもできる」
 ということで、
「自分は、できるだけ、他の人と別の考えをするようにしよう」
 と考えるのであった。
 だから、今回の犯罪も、
「誰も考えないような発想を思い浮かべよう」
 ということから考えに入った。
 まるで、
「表裏一体というものを並行して歩んでいるようなものではないか」
 という考え方だったのだ。

                 大団円

 実際に、この街は、
「犯罪を未然に防ぐ」
 ということを徹底していたということから、被害者が、何を考えていたのか?
 ということを考えてみなければ、この事件は解決しないであろう。
 実際には、警察と被害者とは、まったく関係はないが、警察としてではなく、署長と被害者の間で、誰かの目には見えない、
「硬い絆」
 のようなものがあったといっても過言ではないだろう。
 犯人が、誰であろうとも、被害者が一人で死んでいたということは、被害者にとって、
「犯罪を未然に防ぐ」
 という発想からは、かけ離れたものであった。
「ミイラ取りがミイラになった」
 というと、死んだ人間に対し、真綿で首を絞めるかのようであるが、署長だけは、
「刑部老人の気持ちを分かっている」
 といってもいい。
 確かに勧善懲悪というものを、刑部老人は
「地で行っている」
 といってもいい。
 だからというわけではないが、刑部老人が殺されたことで、その犯人が同じなのかどうか、こちらも別ということであるが、
「勧善懲悪」
 であったり、
「判官びいき」
 というような、
「昭和の名残を残す犯罪」
 というのは、
「連鎖反応を生む」
 ということで、
「連続殺人」
 といってもいいだろう。
 それを、署長は分かっていて、ひょっとすると犯人も知っているのかも知れない。
 しかし、それを、署長が自分からいうということは、
「殺された刑部老人の意思に反する」
 ということで、これも言い方が悪いが、
「因果応報」
 ということになるのかも知れない。
「自分の行いに返ってくる」
 というべきか、署長は、ジレンマに陥っているといってもいいだろう。
 実際に、
「刑部老人が殺された」
 というのは、最初から刑部老人も、へたをすると、署長までもが、分かっていて、覚悟の上だったといってもいいかも知れない。
 だが、それを明かすわけにはいかず、ただ。
「警察の捜査で、明らかになる分には、それでいい」
 と署長は思っていた。
「自分が責任を取ればいい」
 ということであり、きっと、
「犯人も、自分で自らの始末をつけるであろう」
 ということも分かっているのだ。
 だから署長は、敢えて部下に対して、叱咤激励というものをすることはなかった。
 本当であれば、事件が起これば、捜査本部が立ち上がった時に、いつものように、
「檄を飛ばす」
 ということで有名だったはずだ。
 それをしなかったということに対して、署員の皆が、
「何かおかしい」
 と感じていたことであろう。
 だからといって、部下である下々の人たちが、署長に意見を言えるわけもない。
 普段であれば、
「封建的な」
 ということになるのだろうが、
「署員が署長の下で、一丸となって悪を凝らす」
 という、
「勧善懲悪」
 を行うということも、
「覚悟があってのこと」
 といってもいいだろう。
 署長は、覚悟を決めた。
 とはいえ、自分から辞表を出すようなことはしなかった。
「せめて、部下に手柄を建てさせてやろう」
 という気持ちから、
「部下に逮捕されるのであれば本望だ」
 と思っていたのだ。
 そして、逮捕するとすれば、その相手は、
「桜井警部補だ」
 と思っていたに違いない。
 今度の事件は、
「刑部老人を殺害する動機のある人」
 というのはたくさんいて、実際に、
「誰が殺害してもおかしくない」
 という状況であった。
 だから、確かに、
「犯人が誰であるかということと、その真相というのがどういうものなのか?」
 ということは大切なことであろう。
 しかし、それ以上に、
「刑部老人が、いかにまわりから恨みを買ったり、自分が死ぬことで、助かる人がいる」
 ということを、その人たちにわざと知らしめたというところがあった。
 実は、
作品名:昭和からの因果応報 作家名:森本晃次