昭和からの因果応報
特に、双極性障害というのは、精神疾患の中でも結構多いものであり、精神疾患の人が周りにいなかったりすると、あまり馴染みのないものだといえるだろう。
しかし、この、
「双極性障害」
というのは、そもそも、以前であれば、
「躁鬱病」
と言われたものであった。
今では、一般的に、
「うつ病」
とは言われるが、実際には、
「双極性障害」
という言い方をして、要するに、
「定期的に、躁状態というものとうつ状態というものを繰り返している」
と言われるものだ。
だから、
「一定期間うつであれば、それが収まってくると、躁状態が襲ってくる」
というものである、
定期的にということは、
「それぞれに極端な状況を知っているということで、そのうちに、自分が誰であるか分からなくなりそうではないか?」
といえるくらいだ。
この病気は、明らかな、
「脳の病気」
ということで、
「完治しない限り、薬を辞めることはできない」
といえるだろう。
特に、
「自殺をしたくなる」
という瞬間があるようで、それは、
「鬱状態の時ではなく、むしろ躁状態の時だ」
と言われている。
というのは、
「確かにうつ状態というと、何をやっても、億劫で、ヤル気が起きないことから、死にたいと思うのを感じるのかも知れないが、実際には、何もやる気が起きないというのだから、自殺をする気力にもならない」
といえるだろう。
「しかし、うつ状態から躁状態に入るという時、要するに、精神状態が切り替わる時には、ある瞬間だけ、躁状態とうつ状態が同居する」
というのだ。
つまり、
「躁状態になった時は、残像のような形で、うつ状態が残っている」
ということになり、本当のうつ状態であれば、
「死にたいと思うかも知れないが、死ぬ勇気も持てない」
ということで、死ぬ危険性は薄いのだが、そこに、躁状態が入ってくれば、躁状態という精神状態の中で、
「今なら何でもできる」
という気持ちになるのだ。
つまり、うつ状態である、
「死にたい」
という思いと、躁状態である。
「今なら何でもできる」
という気持ちが交差することによって、
「死にたいという思いを、い穴ら遂げられる」
と考えることで、衝動的にかも知れないが、死んでしまうという衝動に駆られるのであろう。
いわゆる、
「死にたいと思う気持ちが、トランス状態の中で襲ってくる」
ということになる。
そうなると、
「フラフラと、ビルの屋上から飛び降りる」
ということであったり、
「電車に飛びこむ」
という、普段であれば、恐ろしくてできないこともできてしまうのが、
「躁状態」
というものの怖いところだといってもいいだろう。
実際に医者もそのことを危惧していて、
「患者や患者の周囲の人」
に対して、
「躁状態の時、気を付けなければいけない」
というのであった。
しかも、
「精神疾患というのは、合併症のようなものが多い」
ということで、
「双極性障害を持っていながら、パニック障害であったり、統合失調症と呼ばれるものも持っている」
という人も少なくはない。
特に自殺をしたくなる症状として、以前騒がれた中に、
「タミフルによる副作用」
というものがあった。
これは、
「インフルエンザの特効薬」
と言われているが、10年以上くらい前であれば、
「使用禁止薬物」
と言われていたくらいだった、
完全に、
「ラりってしまう」
ということで、まるで、
「麻薬のようだ」
ということになるのであろう。
しかし、被害者は、年齢的に、すでに70歳になっていた。
実際に、
「老人になってから精神疾患を患う」
ということがあるのであろうか?
そもそも、昔から潜在はしていたが、表に出ることはなく、
「ただ潜伏していただけ」
ということになるのではないだろうか?
「何かの抑えのようなものがあり、発症しないという事象があるのかも知れない」
と思えるのだった。
だから、
「年老いてから発症すると、老人に多い、痴呆症であったり、健忘症のようなもの」
と勘違いされたり、実は、精神疾患であるに違いないのに、
「老人になってから発想することはない」
と判断され、実際の症状を見逃してしまうことになるかも知れない。
もっとも、精神科医でもないのだから、そこまで詳しく分かるわけもなく、そのあたりを勉強しようとすれば、かなりの専門書を読みこまなければいけない」
ということになるだろう。
それを思えば、
「精神疾患」
というものを、素人が勝手に判断するというのは、本当に恐ろしいことだといえるのではないだろうか?
特に、
「双極性障害」
というのは、
「勝手に医者が処方した薬を飲むのをやめてしまう」
という人がいる。
それは、それこそ、
「躁状態」
ということにこちらも影響してくるのであるが、
「躁状態」
というものが、
「今だったら何でもできる」
と、それまで、鬱だったということで、何もできなかった自分、
「ネガティブにしか考えることができなかった自分」
というものを、
「ギャップの激しさ」
からか、余計に、
「何でもできるのだから、治ったに違いない」
と思うのだ。
それまで、
「何をするにも億劫だ」
と思っていたくせに、自分で努力もしていないのに、
「何でもできる」
あるいは、
「なんだってできる」
というくらいにまで思い込むと、
「タミフルのような症状を、意識しながら考えることができる」
ということから、
「自分の病気は治った」
と思い込んだとしても、それは無理もないことになるであろう。
それを考えると、病気というものを、
「自分勝手な判断をしてしまうと、治るものも治らない」
ということになる。
特に、精神疾患というのは、
「自力で治せる」
というものではない場合が多い。
特に、
「合併症」
というものがあることで、表に出てくる症状が複数あり、それが、歪に絡み合っているということになれば、
「勝手な判断は、命取りになる」
といってもいいだろう。
今回の事件と似た案件で、それから少し前に起こったことであったが、その事件では、
「殺害後に、火をかけられた」
というものがあった。
いわゆる、
「放火殺人」
ということになるのだろうが、
「放火も殺人も、罪とすれば、総統に想い」
といえる。
「放火というのは、もし、誰かが巻き込まれると、確実に死んでしまう」
ということが予想されるということであり。
「もし死んでしまわなかったとしても、被害者の財産を奪う」
という実に卑劣な犯罪だ。
そういう意味で、
「放火」
というものが、たとえ、人が死ななくて、
「殺人未遂だった」
としても、量刑とすれば、
「最低でも、無期懲役」
といってもいいくらいの、大罪ということになるだろう。
「もちろん、それでも放火をする」
というのは、
「放火をすることで、確実に証拠を隠滅できる」
というような場合であろう。
逆に、
「証拠が見つかってしまうと、問われる罪は、計り知れ倍」
というようなものであれば、



