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昭和からの因果応報

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「平成以降の、心理捜査や、科学捜査による推理」
 というものも、どちらも奨励していた。
「要するに、事件を解決できれば、どちらでもいいのだ」
 ということになるのだ。
 それを考えると、
「頭でっかちの刑事ができるのも懸念があるが、昭和の刑事のような、地道な捜査が、最終的な自分の推理を完璧なものにする」
 という考えもあり、
「どちらも否定する」
 という気持ちにはなれないのであった。
 桜井警部補も同じ性格であり、門倉警部に輪をかける形で、彼のモットーとしては、
「犯罪事件において、片手間は禁物だ」
 と思っている。
 というのは、
「一方向からだけしか見ていないと、真実を見誤る」
 と思っていた。
 桜井警部補は、
「真実は一つだ」
 という言葉があるが、
「それは確かに真実ではあるが、半分間違っている」
 というのであった。
「一つしかないには、事実であって。それを組み合わせることで見えてくるものがたくさんあれば、それは真実ということで、すべてにおいて正しいということになれば、逆に、真実が一つという考えは矛盾している」
 と考える。
 つまりは、
「真実は一つではなく、本来は、その真実における正義は一つ」
 というべきではないかと考えるのであった。
 事実は、正義であろうが、悪であろうが、一つしかない。
 しかし、真実は、正義であったり悪であったりすれば、見る方向によって、どちらもあるといってもいいだろう。
 だから、
「最終的なものを見出すと考えた場合、最終的なものは、求めるものということであり、警察の捜査というのは、正義か悪かというものを判断できる材料というものが、真実だ」
 ということになるのだろう。
 だから
「真実は一つ」
 という言葉だけでは、足りないということになるのであり、そこには、善悪ということが入ってくることで、初めて、
「警察の仕事が終わる」
 ということなのだ。
 その真実をもとにした善悪の判断を裁判所で行い、最終的な刑罰が決まるということになるのだ。
 そういう意味で、警察の捜査には、
「同情は許されない」
 と言われるのだ。
 もし、同情してしまうと、
「真実にたどり着けない」
 ということになる。
 つまりは、
「刑罰をつけるための真実という善悪」
 というものを、見失ってしまうということになるのだ。
 そういう意味で、
「警察の捜査には、同情からの真実を見失う」
 ということは許されない。
 犯人側も、犯罪を計画するのであれば、
「情に訴える」
 ということを普通にしてくることであろう。
 しかし、警察は、
「犯人を逮捕するだけの証拠を集めて、裁判所に逮捕令状を請求する」
 それが下りると、今度は取り調べが行われ、拘留期限の間に、実況見分などを行って、証拠固めを行い、そのうえで、警察官が、
「公判を保てる」
 と考えれば、起訴して、そこから先は、裁判となるのだ。
 実際に、それまでに証拠がそろわなければ、
「証拠不十分で、釈放」
 ということになり。
「拘留期限までに起訴できなければ」
「不起訴」
 ということになるのである。
 だから、警察とすれば、
「逮捕するまでに、いかに証拠、つまりは、物証を掴むことができるか?」
 ということが問題なのだ。
 だから、昔の場合は、
「拷問にかけてでも、自白させなければいけない」
 ということで警察が焦っていたのも分かるというものだ。
「自白しなければ、警察は、どうすることもできない」
 ということで、
「昭和の時代であっても、平成令和であっても、基本的な流れは変わりないが、時代が移るごとに、捜査や取り調べが難しくなってきた」
 というのも事実である。
 特に、
「警察の落ち度」
 というものがあると、
「マスゴミは黙っていない」
 ということになる。
「また警察の不祥事か?」
 ということが尾ひれをつけて、マスゴミに掛かれば、
「完全に網に掛かった」
 といってもいいだろう。
 マスゴミというのは、警察に限らず、騒がれる対象の落ち度を絶えず探しているといってもいい。
 それを考えると、
「警察というものは、いつの時代であっても、敵に回すと厄介なものがあるというものである」
 特に警察が、
「一番気にしなければいけない」
 というものは、
「冤罪」
 というものであろう。
 確かに、警察は、検挙率を挙げないといけない。
「検挙率」
 というものでしか、警察を評価するものはないからだ。
 例えば、
「いくら社会でどんなに注目を浴びる事件を解決した」
 といっても、その話題も、一時だけのことである。
 実際に、
「どんなに、有名政治家のわいろ事件」
 というものであったり、
「凶悪な猟奇殺人の犯人を捕まえた」
 といっても、
「人のうわさも七十五日」
 といっていいだけのことである。
 これが、未解決ということになっても、
「世間は一時は騒ぐが、そのうちに忘れるものだ」
 という意味では、一長一短だといってもいいだろうが、
「検挙率」
 というものは、定期的に、数字の上下で考えると、
「絶えず、注目され、まるで、警察の成績表のごとく」
 ということになる。
 つまり、
「検挙率を挙げないと、警察の威信は失墜し、さらには、事件解決に向けて、一般市民に協力してもらわなければいけない立場で、失墜した警察に、誰が協力するというものか?」
 ということである。
 一つが信用できないということになると、どこまでも、信じられなくなるというのは、無理もないことであろう。
 たとえば、
「余計な事件にまきこまれたくない」
 ということで、事件の話をしようとする。
「善良な市民」
 が考える時、
「あの警察だったら、もし何かあった時、自分を守ってくれるだろうか?」
 と感じてしまう。
 警察に協力したことで、殺されでもすれば、目も当てられないということになる。
 もし、警察に協力したことで殺されたとしても、その時は、世間も同情してくれるかも知れないが、すぐに世間は忘れてしまう。
 ただ、
「そんなことはどうでもいい」
 ということで、
「命あってのものだね」
 というではないか、
 つまり、
「殺されてしまっては、本末転倒」
 ということで、
「死んで花実が咲くものか?」
 ということで、信じられない警察が相手であれば、へたをすれば、
「犬死」
 ということになりかねない。
 だから、検挙率を挙げることで、警察は、市民に信用してもらおうと考える。
 しかし、実際は、
「警察の仕事は、検挙率を挙げるということが問題なのではなく、本当の問題は、犯罪を未然に防ぐ」
 ということではないだろうか?
 しかし、実際には、
「犯罪を未然に防ぐ」
 ということをしても、そもそもの対象がないことで、数字として証拠にならないということになるので、口でいくら。
「事件を未然に防いだ」
 と言ったとしても、市民がそれで警察を信用してくれないということになるのであった。
 二人の管轄所であるK署では、署長をはじめ、
「検挙率を挙げるよりも、事件を未然に防ぐ」
 という方を、徹底しているといえる。
作品名:昭和からの因果応報 作家名:森本晃次