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循環という限界

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「信仰の自由」
 というものが隠れ蓑となって、結局、
「治安を脅かすテロ組織が生まれた」
 ということになるのだ。
 今の時代には、
「治安維持法」
 というものも、
「特高警察」
 というものもないので、
「裏組織」
 として、どれだけの組織が暗躍しているか?
 ということは分からないだろう。
 分かったとしても、今の国家体制で、どこまでできるのか?
 ということは分からない。
「さぞや、どうしようもない国家になりかかっている」
 といっても過言ではないだろう。
 それは、
「平和主義国家」
 と言われている日本においての、
「改憲問題」
 ということにも、並行して考えることなのではないだろうか?
 さらに、問題といってもいいのは、もう一つの自由ということでの、
「表現の自由」
 というものである。
 特に今の時代では、
「ネットの普及」
 ということで、
「SNS」
 というものの発展から、
「一般人が、自由にいろいろな情報を発信できる」
 ということで、それまでの法律では抑えきれないようになった問題というものがあるということだ。
 それが、
「誹謗中傷」
 などの問題であるが、
「SNSなどのネット」
 においては、
「匿名性」
 というものが重視されている。
「自由な表現」
 ということで、匿名性なのだろうが、そのために、
「あることないこと」
 を配信してしまうことで、攻撃された人は一気に、悪者になってしまう。
「自殺に追い込まれる」
 などという事件があいついだことで、
「やっとこさ」
 といってもいいくらいに後になって、政府や国会議員が、法律改正に乗り出したりしたということである。
 しかし、そもそも、
「表現の自由」
 というものがあるのだから、そう簡単には解決するものではない。
 いや、
「解決など、永遠にできないかも知れない」
 といってもいいだろう。
 その証拠に、
「マスゴミによる社会への悪影響」
 というものがなくならないのがその影響ではないか?
 そもそも、
「大日本帝国時代」
 に、最終的には焦土となり敗戦に導いたその責任というのは、
「軍部の暴走」
 と言われているが、
 実際には、
「国民世論をそのままマスゴミが誘導することで、軍部や政府が後に引けなくなった」
 といってもいい。
 もっといえば、
「本当は、戦争終結の作戦を、軍部も立てていて、実際に計画通りに行っていたのに、国民やマスゴミが、連戦連勝に酔ってしまい、辞めることができなくなった」
 というのが、一番の原因である。
 そういう意味では、
「誰に責任があるのか?」
 ということになれば、本来であれば、検証が必要なのだろうが、敗戦してしまったことで、
「極東国際軍事裁判」
 というものによって、
「誰かに罪を着せないといけない」
 ということで、結局、
「軍部の人間」
 に責任を押し付け、
「軍事国家」
 である大日本帝国の崩壊を目指したということになるのだ。
「戦争などというのは、本来は、誰が悪いということではない」
 ということで、それまでの戦争において、
「戦犯を決める裁判」
 などというのはなかったではないか。
 あの戦争は、規模が大きかっただけに、
「誰かに罪を着せてしまわないと。収拾がつかない」
 ということであり、
「そうでもしないと、また世界大戦が起こってしまいかねない」
 ということでの、
「繰り返される世界大戦」
 というものを抑える必要があったということであろう。
 実際に、
「未来がどのような世界なのか?」
 ということは、誰にも想像がつかないだろう。
 しかし、
「これからの時代、歴史を勉強したうえで、時系列というものを、交わることのない平行線」
 という感覚で見ていくとすれば、
「想像くらいはつく」
 といってもいいだろう。
 ただ、今までの歴史から考えていけば、
「どう転んでも、これからの世の中、いい方に進むとは思えない」
 といえるだろう。
 しかも、その中に、
「無数のターニングポイント」
 というものがある中で、
「世界の滅亡の危機」
 というものが張らんでいるということは、
「これくらいのことは、子供でも分かる」
 というものだ。
 実際に、世界において、
「どのような戦争が起きているか?」
 ということであったり、その、
「政治的な社会情勢」
 であったり、
「経済社会」
 というものを考えると、
「下向きにしか想像できない」
 といってもいい。
「世界大戦後の二大大国による、東西冷戦」
 というものがなくなったことで、
「平和な世の中になる」
 と思われたところで、またすぐに、世界はきな臭くなり、
「超大国一国」
 というものが、今度は幅を利かせたことで、
「世界が歪になってきた」
 ということである。
 しかも、
「今度は、新興国といってもいい国が、さらなる敵ということで、嫌がらせをしてくるようになる」
 ということになると、
「社会は、ロクな時代にならない」
 といってもいいだろう。
 それを考えると、
「自由」
 と、
「平等」
 というものを天秤に架けるという考えは、遠い昔の発想ということになるのではないだろうか?
 だから、
「未来」
 という時代を想像することはできるかも知れないが、
「それが本当に正しいのだろうか?」
 ということで、歴史認識を疑う感覚になってしまうのだが、その信憑性は、
「かなり低い」
 と言わざるを得ないだろう。
「未来というものは、新たに何が生まれるか分からない」
 ということで、
「歴史の検証」
 だけではままならないといってもいいだろう。
 実際に、今まで、
「歴史の事実」
 とまで言われていたことが、ここ数十年の間に、
「どれだけの数、間違いであった」
 と言われるであろう。
「過去の事実」
 というものにおいても、それだけあるのだ。
「これが未来においてのこと」
 ということであれば、どう考えればいいのか?
 ということになるわけで、
「想像を絶する」
 という言葉のその上があるのではないかということになるだろう。
 だからこそ、
「異次元」
 というものが、
「未来世界」
 ということに結びつくかは別にして、
「未知の世界の創造」
 ということからか、小説の世界では、
「異世界ファンタジー」
 というものが流行っているといってもいいだろう。
「異次元と異世界」
 という、
「抽象的ではあるが、違う考え」
 というものが存在しているわけだが、
「異次元というのは、前述のように、縦割りの階級制」
 といってもいいのではないだろうか?
 だから、
「縦割りの中で、一直線の時系列」
 といってもいいだろう。
 三次元までの発想にはない、
「時系列」
 というものであるが、だからこそ、
「それぞれの刻んだ断面図でしか、見ることができない」
 というのが、
「この世界ということである三次元なのだろう」
 ということだ。
 これが、四次元になると、
「時系列」
 というものを理解できる世界ということであり、
「時間の流れを、理屈として理解できるようになるのが、四次元の世界」
 といえるだろう。
 だから、
作品名:循環という限界 作家名:森本晃次