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循環という限界

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「上下関係から、隷属的な関係になっていく」
 というのも仕方がないことになる。
「親会社と、子会社、孫会社の関係」
 などというのも、その弊害であり、
「どんどん下にいくほど、理不尽なことになる」
 という社会から、表に出てくるものが、
「貧富の差」
 ということである。
 これを、
「果たして平等だ」
 といえるのだろうか?
「人間は生まれながらにして平等だ」
 と言われているが、果たしてそうだろうか?
「富豪や君主の家に生まれる人もいれば、貧乏や奴隷の家に生まれる人だっている」
 ということになり、
「生まれ落ちた瞬間から、差別が始まっている」
 といってもいいだろう。
 要するに、
「生まれながらにして平等だ」
 というのは、偽善であり、
「民主主義の言い訳でしかない」
 ということになる。
 だったら、
「平等」
 というものを目指した社会にすればいい。
 ということを言われるかも知れないが、実際にはそれではまずい。
 確かに、
「自由競争が差別を生む」
 という弊害はあるだろうが、
「すべてを平等」
 ということにすればどうなるか?
「会社で働いている人、すべてが、同じ給料」
 ということになる。
 そして、会社の上下を作らないようにするには、
「強い力で、差別が生まれない社会」
 というのを作らなければいけない。
 ということで、
「国有化」
 ということになる。
「同一業種で競争が起こることから、平等ではなくなる」
 ということであるから、
「競争のない世界」
 ということを考えると、
「国営化」
 ということになり、
「社会において、競争をしないということを徹底させる、強力な政府が必要だ」
 ということになる。
 だから、
「政府には逆らえない」
 ということが必要で、
「政府によっての恐怖政治」
 というものも出てくるのだ。
 そうなると、今度は、
「国民の反発」
 というものの現れである、
「クーデターなどの阻止」
 ということで、
「政府に逆らわない体制」
 を築かなぇればいけなくなる。
 そのために、
「政府に逆らう連中を粛清する」
 ということで、結局どういうことが起こるかというと、
「独裁」
 ということになるのだ。
「企業も、すべてが、政府の国営」
 ということになり、そこには競争は存在しない。
 政府による強制力の中、
「競争がタブー」
 ということになると、
「誰もまじめに働かない」
 ということになってくるだろう。
「どうせ、一生懸命に働こうがどうしようが、結局もらえるお金が変わらない」
 ということであれば、
「サボっていればいいんだ」
 ということになる。
 そうなると、
「発展」
 というものはない。
 それでは、政府とすれば困るわけで、特に、
「兵器開発が、国防の最優先課題」
 ということになれば、おろそかにできないということだ。
 だとすれば、
「首に縄をつけてでも、開発させないといけない」
 ということで、それこそ、
「武力や、国家権力によって、働かせる」
 という方法しかない。
 つまりは、
「人権などない」
 ということになるのだ。
 だから、
「自由というのは、もはやない」
 といってもいい。
 それこそ、
「民主主義の限界を超える理想の世界」
 ということで考えられていた、
「社会主義」
 あるいは、
「共産主義」
 と言われるものは、
「平等というものを優先して、自由というものを犠牲にする」
 ということで、その、
「自由」
 というものの中には。
「恐怖や、束縛」
 というものによって、制限されるということで、
「独裁国家」
 というものを呈してくるのであった。
 だからといって、
「民主主義がやはり理想であった」
 というわけにもいかない。
 あくまでも、
「共産主義」
 というものが極端だったということで、決して、
「民主主義が理想の社会だ」
 といえるわけではないだろう。
 ただ、民主主義の、
「自由競争」
 というものは、
「働けば報われる」
 ということから、
「一生懸命に働く」
 ということが理想とされる。
 自由競争の中から、新しい発想であったり、研究がなされることで、それぞれの社会での、
「成長」
 というものが見られるわけである。
 それが、ひいては、国家の成長につながり、国家体制とすれば、
「成功」
 といってもいいだろう。
 ただ、その開発競争というものが、
「国民全員にいきわたるものだけだ」
 というわけではなく、
「一部の人間のためだけ」
 ということであり、しかも、
「その犠牲は大多数の人に影響する」
 ということもえてしてあったりする。
 それが、
「兵器開発」
 などというものではないだろうか?
 今までの歴史の中で、
「戦争というものがなかった時代はない」
 と言われている。
 戦争というものは、
「国家間の戦争」
 と言われるものだけではなく、
「クーデター」
 であったり、
「内乱」
 さらには、
「テロ行為」
 というのも、戦争というくくりの中に入れてもいいのではないだろうか?
 そういう意味でいけば、
「世界のどこかで、必ず起こっているのが戦争だ」
 といえるのではないだろうか?
 これは、今の時代であれば、
「会社間における、競争による潰しあい」
 というのも、一種の戦争のようなものであり、もっといえば、
「受験戦争」
 なるものも、
「文字通りの戦争」
 といってもいいかも知れない。
 考えてみれば、
「まだまだ子供なのに、小学生の頃から、人を蹴落とすということでの受験戦争という名の戦争をしなければいけない」
 ということになるのだ。
 ただ、大日本帝国の時代も、子供の頃から、
「天皇陛下のためであれば、死をも恐れずに戦う」
 ということを教え込まれてきた時代である。
 それを、
「いい悪い」
 と一刀両断にはできないので、
「それを悪いことだ」
 と一刀両断にはできないだろう。
 あくまでも、
「国家を守る」
 ということを、
「国民一人一人」
 が認識していたということだ。
 今の時代は、
「人権」
 であったり、
「自由」
 ということで、考え方であったり、イデオロギーというものの強制はできない。
 だから、
「信仰の自由」
 などということになり、その弊害として、
「宗教という特別な組織を隠れ蓑にして、却って、信仰の自由という理由で、本来の自由を束縛する」
 ということになったりする。

                 未来と一直線

 しかも、それこそ、大日本帝国時代の教育との共通点として、
「洗脳」
 ということが浮かび上がってくるのである。
 あくまでも、
「国家ぐるみか、あるいは、個別の問題として」
 というだけの違いであり、
「宗教問題が発展し、テロ組織になってしまった」
 という治安問題を揺るがすことになるのであった。
 よく、
「大日本帝国時代には、特高警察というものがあり、治安維持法にのっとって、反政府組織などには、国家権力でつぶせるだけの力を与えていた時代があった」
 と言われるが、
「自由」
 をモットーにした民主主義の時代であっても、
作品名:循環という限界 作家名:森本晃次