小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

循環という限界

INDEX|10ページ/14ページ|

次のページ前のページ
 

「二次元の世界」
 では、
「高さというものを見ることはできるかも知れないが、理解することができない」
 と考えることもできるだろう。
 だから、三次元の我々は、
「時系列」
 であったり、
「歴史」
 というものを、
「断面的に見る」
 ということができるだけで、理解ができない。
 だから、
「歴史というものが、間違っていた」
 と、時間が経つにつれ、人間が成長し、分かってくるようになるということであろう。
 それを、
「時系列」
 ということで、
「一直線上にだけ考えることができる」
 というのが、
「三次元の世界」
 ということになるだろう。
 しかし、実際の、
「四次元の世界」
 というものを、創造してみると、
「時系列」
 というものも一つではない。
 つまりは、
「いろいろな角度から見ることで、いろいろな世界が見えてくる」
 ということになり、それが、
「パラレルワールド」
 というものの発想となるのではないだろうか?
 だから、今の自分たちに、
「タイムトラベルが不可能だ」
 ということになるのであり、もちろん、
「タイムパラドックスの問題」
 というのがあるから、
「タイムトラベルは不可能なのだ」
 ということになるだろう。
 しかし、それだけでは、理由にならないということを考えると、そこに、
「四次元の世界」
 という発想が、現実味を帯びてこないと、成り立たないといえるのではないだろうか。
 だから、逆にいえば、
「四次元の世界というものを創造できる」
 ということになれば、その瞬間に、
「タイムパラドックス」
 というものが解消されるということになるだろう。
 そうなると、
「タイムパラドックスの問題」
 というのは、
「四次元の世界の創造」
 というのと同意語といってもいいかも知れない。
「タイムパラドックス」
 というのは、
「時系列を一直線だ」
 と考えたことから、
「すべての矛盾が発生しているのかも知れない」
 と考えると、
「結局は、パラレルワールドというものを避けて通ることができない」
 というわけで、そこにできる考え方として、
「無限」
 というものに行きつくということになるだろう。
 その時に感じたのが、
「中学時代に見た絵の平面での、双方向からの発想」
 というものであった。
「思い出した」
 ということなのか、
「ひらめいた」
 ということなのか、
「偶然ではない必然だ」
 と思わせるに十分だったのだ。
 そういう意味で、未来においても、
「こちらが未来を見ているのと同じ瞬間に、未来からも、過去を見ている人と波長が合っているのではないか?」
 と思うのだった。
 もちろん、
「突飛な発想だ」
 といってもしかるべきであろうが、中学時代に見た、
「平面の絵」
 を思い出すと、
「両方から見ている」
 ということもありえるということで、
「自分の顔を鏡で見ている」
 という瞬間を想像させる。
「鏡というのは、実に不思議な世界だ」
 といってもいい。
 一つには、
「合わせ鏡」
 という発想である。
 これは、自分の目の前の、
「前後か左右」
 に鏡を置いて、
「その状態でどちらかの鏡を見る」
 ということである。
 そこに現れるのは、
「無限に映る自分の姿」
 というものである。
「どんどん小さくなっていっているのだが、決して消えることはない」
 という発想である。
 それこそ、
「限りなくゼロに近い」
 という発想であり、それが、
「無限というものの証明ではないか?」
 と考えられるのであった。
 しかも、
「その無限ということの証明」
 ということで、
「一直線」
 ということが、その絶対定義ということになるだろう。
 一直線という発想が、
「時系列」
 という発想と切っても切り離せないと考えると、
「合わせ鏡」
 という発想が、
「一直線の時系列」
 というものへつながっていき、その証明として、
「無限」
 というものが付与されたかのように感じられる。
 それを考えると、
「異次元の世界の創造」
 さらには、
「未来への創造」
 ということに、
「無限に広がる可能性」
 ということと、
「限りなくゼロに近い」
 という発想とが、
「どこかで交わる」
 と考えられる。
 そもそも、この二つは、
「平行線ということで、交わることのない」
 と考えられた。
 その証拠として、
「それぞれが一直線となっている」
 ということで、
「時系列によるものだ」
 ということになるのであった。
 それを考えると、
「メビウスの輪」
 というものの創造も、納得がいく気がするのであった。
「メビウスの輪」
 というのは、
「ねじれた面の上に、一直線に線を引く」
 ということで、
「交わることのないものが、交わる」
 という発想からきているのではないだろうか?
 それを考えると、
「だからこそ、異次元」
 ということで、
「一直線という発想をいかに、未来につながっていくか?」
 ということになるであろう。
 しかも、
「今の状況」
 であったり、
「過去の歴史」
 を鑑みると、
「この世界に未来はない」
 といってもいいだろう。
 どんなにきれいごとを言ったとしても、すでに、
「異常気象」
 であったり、
「天変地異」
 などが発生している。
 しかも、それは、
「人間が引き起こしたこと」
 というのは紛れもないこと。
「本当にそれでいいのだろうか?」

                 無限と限界

「未来に、もう一人の自分がいるのかも知れない」
 などという、
「大それた発想」
 というものを抱いたのは、
「時系列が一直線」
 になっていて、
「その先に見える未来」
 というものが、
「無限の可能性を秘めている」
 と考えたからだ。
「無限の可能性」
 というものを考えた時、思い出すことがあった。
 それが、
「ロボット開発」
 というものにおける、
「フレーム問題という発想だった」
 ということである。
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
 ということで、その可能性を予知できない限り、ロボットは次の行動に移ることができないということである。
 つまりは、
「無限の可能性というものを、パターン化することで解決できるのではないか?」
 ということであるが、結局、
「無限である」
 ということで、
「それも無理だ」
 ということが分かったわけである。
 それこそ、
「無限が一直線につながった」
 ということになるのであろう。
 実際に、
「ロボット開発」
 というものと、
「タイムマシンの開発」
 というものは、
「それぞれに、共通点はないが、問題があることで、不可能な開発だ」
 という意味だけの、
「間接的なつながりしかない」
 と思われたが、実際には、
「無限の可能性」
 という意味で、
「未来」
 と、
「人工知能」
 ということでのつながりから見出されたものだといえるのではないだろうか?
「無限の可能性を予知できなければ、動くことができない」
 というのがロボットであるというのに、人間の場合は、
「無限の可能性」
作品名:循環という限界 作家名:森本晃次