循環という限界
普通なら、
「何が正しいのか分からない」
ということで、歴史に興味があった人も、歴史から離れるということになるのであろうが、実際にはそうではない。
逆に、
「どんどん新しいことが発見されることが面白い」
ということになるのだ。
それだけ、
「歴史は、暗記物の学問ではない」
ということを証明したかのようで、今まで、
「まったく興味がない」
といっていた女性の中に、歴史ファンが増えてくるようになると、男性でも、
「歴史が嫌いだった」
という人にも興味が広がるということで、結構メジャーな学問ということになるだろう。
特に、近年では、
「歴史の事実」
であるかのように言われてきた人たちの、
「人物像」
というものが、いろいろな発掘や文書の発見によって、
「実はまったく違った人物だった」
ということになると、
「歴史というのは、ミステリアスだ」
という側面も出てくるのだ。
だから、
「学校では教えない歴史」
であったり、
「逆説」
などという言葉で、
「さらに、ミステリアスな状況を生んでいる」
といってもいいだろう。
それが、
「歴史という学問の正体」
であり、そこに、
「異次元」
という発想が生まれてくれば、また違った方向から、歴史を見ることができるというものではないだろうか。
主義と戦争
そういえば、昭和の時代のSF映画で、
「未知との遭遇」
というものがあったと聞いたことがあった。
実際に、どのような映画なのか興味はあるが、調べたりもしなかった。
確かに、タイトルには惹かれるものがあったが、
「そんな昭和の時代の映画をわざわざ見ようとは思わない」
と、
「興味は持つが、あまり積極的ではない」
と言われる、あおいらしいといえるのではないだろうか?
あおいは、いつも、何かに興味を持つが、必要以上にのめりこむということはしない。
これは、
「一長一短ある」
といってもいいだろう。
何事にも冷静であるが、熱心ではない。
「熱しやすく冷めやすい」
ということとは正反対といってもいいだろう。
「冷めるには、熱しなければいけないが、熱するというところまでいかないのだ」
ということである。
熱心ではないということだから、
「飽きっぽいのではないか?」
と思われるがそうではない。
飽きっぽいということは、興味を持って、一歩踏み込んでみるが、実際にやってみると、
「想像以上に面白くない」
ということから、やる気が失せてしまう。
つまりは、
「萎えてしまう」
といってもいいだろう。
だから、
「一生懸命に何かをする」
ということをしない。
それが、
「何事にも興味を持たない」
ということなのか、
「興味は持つが、行動するまでには至らない」
とうことなのか。
後者であれば、
「ものぐさ」
ということになるのだろうが、
「何のために生きているんだ?」
とまわりは思うだろう。
少なくとも、
「生きがい」
というものが感じられるわけではなく、それこそ、
「人間としての、赤い血が流れているのか?」
と感じさせられるほどである。
だからといって、
「なんにでも興味を持つ」
という人間がいいのかどうか?
ということであるが、
「いろいろなことに手を出して、結局、すべてが中途半端になってしまい、どれとして成果が上がらない」
ということもある。
ものぐさな人間から見れば、
「くたびれもうけ」
ということになり、
「だったら、やらない方がましだ」
ということになる。
それこそ、
「過ぎたるは及ばざるがごとし」
ということであり、
「結果論」
ということで、
「だったら、興味を持ったとしても、しない方がいい」
と考えるようになり、
「最初から、何かをする前に、一歩立ち止まって考える」
ということで、
「制御できるようにするのが一番いい」
と考えるのではないだろうか?
もちろん、そんなことを考えているなど、まわりは誰も知らないだろう。
自分から、わざわざ公表することもない。
なぜなら、
「理解できるかどうか分からない連中に説得を試みるほど、無駄なことはない」
と考えるからだ。
確かにその通りで、
「言い争いになる」
というのは、
「誤解が誤解を生むことで、自分の主張をお互いに貫こうとするから、結局、交わることのない平行線を描く」
ということになるのだ。
それを思えば、あおいは、必要以上のことはしない。
「ものぐさだ」
と言われたとしても、別に構わない。
「人間は、一人では生きていけない」
と言われている。
確かにそうだろう。
しかし、それも、
「自分と同等か、それ以上の人と交流することで自分に得になる」
ということだ。
自分よりも、下の人間を相手にすれば、その分、自分の意識も下がるという可能性があるからである。
この考えは、たぶん、
「他の人にはないものではないだろうか?」
と感じた。
というのは、
「同党であったり、上下関係などという考え方は、差別的ではないか?」
ということで、
「差別というものをもっとも嫌う現代人とすれば、受け付けない発想」
といってもいいだろう。
「人の上に人を作らず」
などという言葉だけを学校で習い、
「それこそが、平等だ」
とでも言わんばかりだから、そのように、
「差別」
というものを誤解する形になるのだろう。
そもそも、
「差別問題」
というものを、学校で教えたり、現在のように、
「コンプライアンス問題」
ということで、
「いちいち問題にしなければいけない」
ということの方が、大きな問題だといえるのではないだろうか?
どうしても、敗戦後の、
「押し付けられた民主主義」
というものがもたらした弊害だともいえるだろう。
民主主義というのは、
「自由、平等、博愛」
と言われているが、
「自由と平等」
というものだけでも、並び立つことができるのだろうか?
つまりは、
「自由と平等」
それぞれを生かすのであれば、
「必ず、どちらかが、妥協しなければいけない」
ということになるのだ。
民主主義の場合は、
「自由を生かすために、平等というものを犠牲にしている」
というものであった。
ここでいう、
「自由」
というのは、
「束縛を受けない」
ということでの、
「人権」
というものであったり、
「商いの自由」
ということでの、
「権利の尊重」
ということになる。
だから、日本国憲法では、
「基本的人権の尊重」
であったり、
「信仰や商売の自由」
などが認められている。
もちろん、義務というものも決められているが、あくまでも、
「自由があっての義務」
である。
ただ。自由というものを尊重すると、平等ということに妥協を見出さねばならなくなり、
「自由によって、生まれる差別」
というものもできてくるのである。
たとえば、
「商売の自由」
ということにより、企業によって、
「大企業と零細企業」
というものの差が増えていき、さらには、



