循環という限界
「自分において都合の悪いことは、最初からなかったということにしてしまえば、何も、タイムパラドックスであったり、帰るべき現在がない」
ということにはならないだろう。
それが、
「異次元」
というものへの発想であり、さらには、
「証明」
ということではないだろうか?
だからこそ、
「異次元」
というものは、
「時系列」
というものと、
「切っても切り離せない関係だ」
といってもいいだろう。
だから、
「異次元というものは、単独で考えた時には、理解できないものだ」
といえるかも知れないが、逆に。。
「時系列というものと一緒に考えることで、初めて見えてくるものがあるのではないだろうか?」
といえるのである。
「実際に、双方向から、絵を見ている」
ということになると、
「自分の意識が絵の中に入り込んでしまった」
かのようで、
「実際には、ありえない」
と思っていることが、
「ちょっと角度を変えてみたことで、まったく違ったものに見えてくる」
ということになるのだ。
そして、その違ったものというのが、
「着地するはずだった現在が、過去を変えたことで変わってしまった現在」
ということになり、
「だから、過去に行ってはいけない」
ということになる。
しかし、本当に、
「変わってしまった現在」
というのが、
「悪いものだ」
と言い切れるのだろうか?
つまりは、
「それが、本当に変えるべき現代だったのか?」
ということである。
本当は、
「戻ってきた現在」
というものが本物で、
「今まで、現在だ」
と思っていたことが、
「実は間違いだったのではないか?」
という発想である。
つまりは、
「次元であったり、時系列というもの」
それらの、
「何が正しい」
といえるのかどうかということである。
それはあくまでも、
「時系列」
というものに沿って過去から現在に歩んできた時、
「当たり前だ」
という意識を持っていることで、
「本来であれば、無意識に見えている」
というはずの、まるで、
「路傍の石」
というものが無意識に感じているからこそ、
「時系列」
というものが、絶対的なもので、
「現在というものは、絶対に正しい」
ということで、
「現在」
というものを、まるで真実であるかのように、見てしまうことで、
「誤解や、錯覚が生まれる」
ということになるのであった。
一次元と二次元を、
「過去の世界」
と考えるとすれば、まだ
「未知の世界」
ということで、
「どんな世界が広がっているのか分からない四次元の世界」
というのは、完全に想像でしかない。
確かに、
「一次元」
「二次元」
の世界というのは、見えているのであるが、その正体が分かるわけではないというものだ。
その世界を垣間見ることはできたとしても、そこには、意識できるものではない。
そういうことから、
「路傍の石」
という感覚になるのだろう。
だから、昔見た絵で、
「想像から、同じ瞬間に、山側からと、家側からという双方を見ることができる」
という、
「三次元ではありえない感覚」
を感じることができた気がするのであった。
それを思えば、
「四次元の世界」
というものがどういうものなのか、想像できないといってもいいだろう。
確かに、一次元も二次元も、言葉の上では、
「異次元」
といってもいいだろう。
ただ、
「一次元に何かを加えることで二次元となり、さらに、高さを加えると三次元になる」
ということから、
「四次元の世界」
というのは、
「時間軸が加わる」
ということで、新たな異世界を想像することができるといってもいいだろう。
だからこその、
「異次元」
というものだ。
実際に、
「まだ見ぬ未来」
というものが次の世界に広がっている。
過去を振り返ってみれば、
「無数に存在したターニングポイント」
これは、
「人類の歴史」
というものであっても、
「個人における歴史」
というものにおいても、存在しているわけである。
特に、
「個人の歴史」
というものは、まわりの人や社会に、絶対的に影響を受けるということになることから、その瞬間瞬間というものが、
「ターニングポイントだ」
といってもいいだろう。
確かに、
「過去の歴史」
というものは、
「事実の積み重ね」
ということで、
「どうしてそういうことになったのか?」
ということは、事実を見れば一目瞭然ということになるだろう。
しかし、これは、あくまでも、
「結果論」
ということになるわけで、
「すべてがつながる」
ということであっても、それは、
「検証レベル」
ということになる。
だから、歴史の勉強というのは、
「過去の事実を検証する」
ということになるのだ。
そういう意味で、今の政府や政治家に、
「歴史的な認識があるとは思えない」
といってもいいだろう。
要するに、
「歴史は知っている」
というだけで、
「決して理解しているわけではない」
といえるだろう。
もし、理解できているというのであれば、
「必ず憲章が必要だ」
ということは分かるはずで、
「歴史は繰り返される」
ということが分かっているからだといえるのではないだろうか?
その問題で大きかったのが、
「世界的なパンデミック」
ということになる。
「もちろん、検証はしている」
と政府の連中はいうだろう。
しかし、その検証内容を、
「国民が知る」
という機会があるわけではない。
それでは、本当に、
「検証している」
といえるのだろうか。
歴史を勉強していれば、分かることもいっぱいある。もし、歴史というものを、
「知っている」
という言い方をするのであれば、検証をしていないといってもいい。
本来であれば、
「勉強している」
という言い方をすることで、
「検証している」
ということを表しているといってもいいだろう。
「歴史は、知るものではなく、勉強、あるいは、検証するものだ」
ということになる。
「歴史を知る」
ということがどういうことなのかといえば、
「かつての、詰め込み教育時代」
のように、
「知識として覚える」
ということで、
「暗記物の学問」
ということになる。
だから、昔は、
「歴史が嫌い」
と言われる、歴史にとっての暗黒時代というものがあったのだ。
「語呂合わせで年号を覚える」
などというのが、その最たる例ではなかったか。
「いいくにつくろう」
であったり、
「なくようぐいす」
などという語呂合わせ。
しかも、今では、
「いいくにつくろう」
ということではないということになれば、まるで笑い話にでもなったかのように思えるのであった。
最近では、
「今まで正しい」
と言われてきたことが、
「実は間違いだった」
ということが結構多い。
「いいくにつくろう」
と言われた、
「鎌倉幕府の成立年」
が間違っていた。
さらには、
「源頼朝」
「足利尊氏」
「武田信玄」
などの肖像画が、
「実は違う人だった」
ということが言われるほどになってきた。



