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循環という限界

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 ということはないだろう。
「しかし、もし、未来に行ったものが、何かの理由で過去に来て、過去を変えたのだとすれば?」
 前述と矛盾しているように感じられるが、
「過去を変えるのはいけない」
 といっているのは、あくまでも、
「自分に対してのことだけ」
 を言っているわけで、実際に、過去の人たちは何も知らずに、時系列の上を歩いているというわけなので、
「知らぬが仏」
 ということで、
「過去が変わった」
 という意識がないまま、何が起こったとしても、それは、
「運命だ」
 ということで諦めがつくというものだ。
 これは、未来に対して、
「自分たちは何も影響を及ぼしていないのだ」
 というのと同じ発想ではないだろうか?
 要するに、未来の人が何かをして、過去に影響を及ぼしたとしても、知らなければ、問題ないと思うのと同じであろう。
 実際に、
「そこまで考える」
 ということはないからである。
 しかし、
「未来に行った人が、本来であれば、過去に戻ることができる機会を開発して、現在よりもさらに過去に行って、歴史を変えることで、自分たちの現在が変わってしまう」
 ということだってあるだろう。
 しかし、
「未来の人が過去にいって、過去を変える」
 ということをしているとは、夢にも思わないので、意識がない。
「何が起こったとしても、今の自分たちは、意識の外なのかも知れない」
 と考えるからだ。
 しかし、本当にそんな考えだけで済むことなのだろうか?
 この発想でいけば、
「未来に行って、もし、未来を変えてしまったとしても、それが過去に影響することはない」
 と思うだろうが、
「実際に未来から帰ってきた時、着地点である過去が変わっていた」
 ということであれば、どう思うだろう。
 その可能性が実際に起こっていたとすれば、
「未来を変えたことで、過去も変わった」
 ということが考えられるということになり、結果として、
「未来を変えたことで、未来人が過去にいくという歴史を変えてしまったのかも知れない」
 という理屈が成り立つことになるわけだ。
 その理屈が、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
 という理論であり、
「未来を変えた場合に、戻るべき過去が変わってしまった」
 という理屈を証明しようとするならば、
「この理論しか考えられない」
 ということになるのではないだろうか?
 実際にこのことを考えた時、
「一次元、二次元が過去である」
 という理屈もなんとなく分かる気がした。
 最近、
「異次元」
 であったり、
「タイムトラベル」
 などというものを気にするようになった、
「あおい」
 という少女がいるのだが、今は高校三年生で、受験勉強の傍ら、このような、
「SF小説的発想」
 というのを頭に描くのが好きだったのだ。
 半分は、
「受験勉強の気分転換だ」
 といっているが、実際には、
「量子力学」
 であったり、
「物理学」
 のようなものに興味があり、そこから、読んだSF小説などから、余計に、物理学などに、さらなら造詣を深めたということで、それこそ、
「タマゴが先かニワトリが先か?」
 ということを、
「地で行っている」
 ということになるのであった。
 そんなあおいが、
「あれは中学時代のことだったかな?」 
 と思い出したのだが、
「中学時代に学校から、美術鑑賞の名目で美術館に絵を見に行ったことがあった」
 ということであるが、
「元々、芸術的なことは嫌いだった」
 ということで、
「館内では、まじめに見ようとも、早く見終わろうとも、それは個人の自由」
 ということになっていたので、あおいは、他の友達と途中まで、急いで見ていた。
 というよりも、
「ほとんど見ていない」
 といってもいい。
 しかし、その途中で、一つの絵を見た時、そこからすぐに立ち去ることができなくなったのだ。
 その場所は、昔のアニメで見たことがあるような、どこかの高原であった。
 まわりを、山に囲まれていて、その真ん中に、一軒の家があったのだ。
 その家を囲むように、垣根が生えていて、その向こうには、ここを取り囲んでいる山々があり、その向こうには、青い空が広がっていた。
 雲が流れているかのように見え、
「絵であるにも関わらず、雲が靡いているなど感じるわけはない」
 と思えるのであった。
 実際に、その空の下にある山は、本当にとんがり帽子のような山が、牙のようい生えていたのであった。
 そこを見ていると、何やら、
「セットか何か」
 という風に感じたのだ。
 明るい広間であったが、その明かりがまるで、蛍光灯であるかのようで、明るいのは分かっているはずなのに、その蛍光灯が、セットを思わせるのであった。
 すると、自分が、
「その絵の中にいて、家の近くで立っているのを感じ、その自分が、とんがり帽子から見える空を感じている」
 と思ったのだ。
 そう思うと、まるで、
「特撮映像を見ている」
 というように、巨大な自分が、山間から見下ろしていると思うと、今度は、
「見下ろしている自分の視線」
 というものを感じるような気がしたのだった。
 要するに、
「お互いに、それぞれの方向から見つめあっているのが感じられ。それが、どっちも自分だ」
 という感覚になったのだった。
 しかし、
「同時に、二人を感じるということができるはずもなく、それぞれ、交互に相手、つまり自分を感じているのだ」
 ということを感じたのだ。
 それは、まるで、昔の無線などで、
「双方向から通信ができない」
 ということが分かったかのような発想だったということである。
 それを感じた時、すぐには感じなかったが、
「何か不可思議な発想が浮かんでくる」
 と思いながら、
「初めてではない気がする」
 と感じ、
「以前にもどこかで感じたことがある」
 と思うと、それが、
「未来において感じることになるものだ」
 ということを感じたのだ。
 だから、未来になって気づいたことであり、その時に、
「ついで」
 というか、
「そのどさくさに紛れる」
 という形で、
「未来に行って未来を変えてしまったら。現在に戻った時に、ありえないことが起こってしまった」
 と考えることの結論だということに気づいたのであった。
 それを思えば。
「絵の中での、双方向の見え方」
 というものが、
「一次元、二次元を過去にする」
 という発想に結びつき、
「三次元の自分たちが、過去である一次元、二次元に関わってはいけない」
 ということを考えさせた。
 しかし、実際には、関わることがないというのは不可能である。
「点と線」
「平面」
 というものを無視して生きることはできない。
 だとすれば、
「関わることはできても、その存在に影響を与えることはできない」
 といえるだろう。
 しかし、実際には、破いてしまったり、変形させるということは当たり前のようにあるではないか。
 だが、これも考え方を変えれば無理もないことになる。
 つまりは、
「変わってしまった過去は、そもそもが過去ではなかった」
 という発想である。
 要するに、
作品名:循環という限界 作家名:森本晃次