循環という限界
ということを想像もしていないだろう。
確かに今の時代は、
「ロボット」
といってもいいくらいの、
「AIという技術にまでは至っている」
といってもいいが、それはあくまでも、
「ロボット工学三原則」
であったり、
「フレーム問題」
というものを解決してのロボットではないということである。
実際のロボット開発というのは、
「ロボット工学三原則」
であったり、
「フレーム問題」
というものを完全に解決しなければいけないというもので、
「避けて通ることのできない道だ」
といえるだろう。
特に、
「タイムマシンの開発」
というものは、実際に、
「その影も形も見えていない」
ということになる。
「タイムパラドックスの解決」
ということ以前に、
「どうすれば、時間を移動できるか?」
ということにまで至っていないということになるのだ。
それは、考え方として、
「タイムパラドックス」
というものが、あまりにも厳しいものなので、人間に対して、
「タイムトラベルを可能とする理論を与える」
ということを許さない神のような存在があるということになるのではないだろうか?
だからこそ、本来であれば、
「いろいろな小説家の発想から、タイムマシンやロボット開発などのヒントが生まれてきてもしかるべきなのに、生まれてこないのは、やはり、最初から、無理なことだ」
という発想が邪魔をしているといってもいいだろう。
だから、
「日本で、SFという発想が育たない」
ということで、小説化されないということになるのかも知れない。
いや、発想として、
「マンガのように、画像や、映画のような映像にしないと、理解されない」
ということで、そこに、一つの結界のようなものがあるのかも知れない。
だが、
「SFというのは、タイムマシンであったり、ロボット工学だけではない」
といえる。
実際に、
「スペースファンタジー」
ということで、
「SF」
といってもいいのではないか?
と言われているが、
「宇宙への研究」
に関しては、
「量子力学」
などという学問と密接に関係があることから、
「いろいろと、奇抜な発想も生まれている」
といえるだろう。
「マルチバース」
などという発想から、
「宇宙は一つではない」
という発想であったりするものが、今度は、
「別のSFのジャンルに結びついてくる」
ということでもあるのだ。
その一つが、
「異次元」
というものに対しての発想である。
今自分たちがいる世界というのは、
「三次元の世界」
と言われていて、
「立体で構成されている」
ということだ。
一次元というのは、
「点と線」
によって構成されていて。そこに
「図形」
という発想が出てきたことで、
「平面」
という、
「二次元の世界が出来上がる」
というのだ。
二次元というものが、
「縦と横」
というもので形成されているということから、三次元の世界には、
「高さ」
というものが存在し、それが、さらに、
「立体という発想を生む」
ということで、今我々のいる、
「三次元の世界」
というものを形成しているということになる。
ただ、この、
「次元という発想」
というのは、
「コンピュータというもので考えると、もっとたくさんの次元がある」
といってもいい。
「縦横高さ」
という立体を三次元と考えるとすると、
「実際の一面の二次元と、その厚みの間に、さらに、次元を設ける」
ということで、
「今の世界を三次元とするのではなく、最終的な結論として出来上がったものが、五次元であったり、六次元である」
という可能性もあるというものだ。
そういう意味でいえば、
「異次元」
という発想は、
「どこから創造するのか?」
ということで、いろいろな面が見えてくるといってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「異次元」
というものも、
「ロボット工学三原則」
であったり、
「タイムマシン」
の発想と同じで、
「大前提となる根本的なところで、創造することが無理なのではないか?」
とも考えられるのだ。
だが、そもそも、この
「異次元」
という発想は、
「ロボット」
「タイムマシン」
のような後からつけた発想ということではなく、最初から、
「切り抜けなければいけない発想だ」
といってもいいのではないだろうか?
この世界が、三次元ということであれば、もし、次元というものを、
「時系列のようなもの」
として考えるのであれば、
「一次元、二次元は過去」
ということになり、
「三次元は現在」
そして、
「四次元は未来」
ということになる。
「少し発想としては、無理のあることであるが、その発想だけではない」
と思われる。
「タイムパラドックス」
として、
「絶対に変えてはいけないもの」
ということで、
「過去だ」
ということが分かっている。
過去を変えてしまうと、それを戻そうとするならば、確実に、
「過去が変わってしまったその瞬間に行って、元に戻さなければいけない」
これは、絶対的な理論ということであり、少しでも間違えると、
「二度と元に戻らない」
というリスクを負うということになるのだ。
つまりは、
「もし、違う瞬間をいじってしまう」
ということになると、
「さらに間違った過去を増やすことになる」
ということである。
だから、必ず、変わってしまった瞬間でなければいけないはずなのだが、
「だからといって、何がどう変わったのか分からないのであれば、それこそ、絶対に過去を元に戻すことは不可能だ」
ということになる。
乱暴な言い方だが、
「一度過去が狂ってしまえば、それを元に戻すということは不可能なのだ」
ということになるだろう。
だから、
「過去に行くのは、最初から危険だ」
ということになるのだ。
そう考えると、
「タイムマシン」
というもの、そのものが、
「人類を崩壊させるだけの力を持っている」
といってもいいだろう。
そういえば、子供の頃に最初に、
「タイムパラドックス」
ということの話を聞いた時、
「過去を変えてしまうと、その瞬間に、ビックバンが発生し、世界が一瞬にして消えてしまう」
というような話を聞いたものだ。
「そんな大げさな」
とその頃には思ったが、考えてみれば、
「それだけの破壊力がある」
といってもおかしくはない。
「絶対に元に戻すことはできない」
ということであるならば、
「入ってしまったが最後、決して逃げられない」
という場所にいるのだと思うのも当たり前のことである。
「未来に行く場合はどうなのだろう?」
と考える。
「未来に行って、未来を変える場合は、自分たちには影響がない」
ということで、一見、何も問題がないという気がする。
しかし、これがもし、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
などという発想と同じであれば、話は変わってくるというものだ。
次元と時系列
というのも、
「未来に行った場合に、確かに過去が変わってしまう」



