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循環という限界

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 ということではないか?
 と考えるのもありではないだろうか?
 そういう意味で、
「タイムマシン」
 という発想が、
「理論的に不可能なのではないか?」
 と言われる一つということであろう。

                 タイムマシンとロボット工学

 もう一つとしては、
「ロボット開発」
 と言われるものである。
 このロボット開発ということで問題になることが、二つある。
 一つは、
「ロボット工学三原則」
 と呼ばれるものに付随するものであった。
 これは、かつて言われた、
「フランケンシュタイン症候群」
 と呼ばれるものと切っても切り離せないというものであり、
「理想の人間を作ろうとして、怪物を作ってしまった」
 という話からきているものであった。
「ロボット開発」
 というものの元々の発想は、
「人間ではできないことをロボットにやらせる」
 ということが元々の発想であった。
 つまりは、
「人間よりも、頑丈であり、人間ができない力を持っていないといけない」
 ということから出たものであるが、それはあくまでも、
「人間よりも、力が強い」
 ということで、
「人間のいうことには、絶対」
 ということでなければ、ロボットにはかなわないわけなので、へたをすれば、
「ロボットに滅ぼされる」
 というのが、
「フランケンシュタイン症候群」
 というものである。
 つまりは、
「決して、人間を襲わない」
 ということを大前提として、他にもロボットの人工知能に埋め込んでおかなければいけない理論を考えたのが、この、
「ロボット工学三原則」
 と言われるものであった。
 この三原則は、実は。
「科学者の発想」
 ということではない。
 実際に考えていた学者もいたかも知れないが、実際に表に出たのは、今から70年くらい前の小説というものであった。
「ロボット開発において、三原則を守るように組み込まれた回路が、いろいろな問題を引き起こす」
 というSF小説から出たものだった。
「なぜ、いろいろな問題を引き起こすのか?」
 というのだが、それは、
「その三原則というものには、それぞれに優先順位がついている」
 ということから生まれるものであった。
「優先順位がついているということは、それを崩す何かがあれば、せっかくの人工知能が役に立たず、逆に、悪い方に向かってしまう」
 ということになるのだ。
 実際に、
「ロボット工学三原則」
 というものの発案者である小説家の話は、
「たくさんの、ロボット工学三原則における矛盾をあぶりだしている」
 といってもいいだろう。
 そして、もう一つ、
「確かに、ロボット工学三原則というものは、ロボット開発の中でも、最優先で考えないといけないことだ」
 といっても過言ではないだろう。
 しかし、もう一つの問題というのは、もっと、根本的なところで、つまりは、
「ロボット工学三原則」
 という問題があろうがなかろうが、
「もっと理論的に無理なことだ」
 といってもいいだろう。
 それを、
「フレーム問題」
 と言われるものだ。
 実際に、ロボットの中に組み込む、
「人工知能」
 というものが完成したとして、実際に、ロボットに、
「自分の意思で動く」
 という回路を入れたとすれば、ロボットが、
「どういう動きをするか?」
 ということが問題となるのである。
 実際に、ロボットが、知識を組み込まれてはいるが、
「理論づけての行動がどこまで理解できるか?」
 ということである。
 つまりは、
「ロボットが、無限に広がる可能性のすべての中から、判断ができるか?」
 ということである。
 正直、すべてのパターンを理解できるわけはない。
 なぜなら、
「ロボットを作った人間に、そのパターンが分かるわけはない」
 ということになるのだ。
 そうなると、一つの考え方として、
「それぞれの行動をパターン化して、それを細分化していく研究をしていけば、いずれは、ロボットの人工知能は、判断ができるようになる」
 ということであったが、これを、
「数学的な発想」
 ということで考えると、
「無理だ」
 ということが分かるのだ。
 というのが、
「無限というものは、整数の何で割っても、答えは無限でしかない」
 ということである。
 つまりは、
「無限というものは、どんなに細分化を試みても、結局は限りない無限でしかない」
 ということになり、結局は細分化は不可能だというのを、
「ロボット開発における、フレーム問題」
 と言われるものであった。
 ただこれも、
「考え方」
 ということであるが、
「ロボットの中に、成長するという回路を付加し、経験していくうちに、パターンが備わっていく」
 ということにすればどうだ?
 ということである。
 しかし、これも、
「経験をすることで生まれてくるものなので、そもそも、最初の一歩が踏み出すことのできないロボットにできるはずはない」
 といえるだろう。
「じゃあ、人間が与えれば?」
 ということになるが、ロボットは自分で判断できる力がないといけないということなので、この発想も、本末転倒である。
 それを考えると、今度は、
「脳だけを、ロボットに移植するという考え方」
 というものが生まれてくる。
 それが、いわゆる、
「人造人間」
 というもので、
「サイボーグ」
 などという発想になるのだ。
 実際に、人造人間という発想の話は、小説でも、マンガでも描かれていて、特に、
「悪の秘密結社が、自分たちの利益のために、人間を改造する」
 という発想から生まれたものである。
 そういう意味では、
「あまりポジティブな発想」
 ではなく、物語の趣旨としては、
「一種の勧善懲悪」
 というものから出てきた発想だといえるのではないだろうか。
 だから、
「物語としては面白い」
 ということであるが、
「ロボット開発」
 という、
「リアルな問題」
 としては、活用できる発想ということではない。
 つまりは、
「実際に、ロボット開発というものも、タイムマシンの開発と同じように。根本的な大前提の時点から、先に進まない」
 という運命を持っているということになるだろう。
「最初から、先に進まない」
 ということであれば、それは、
「すべてが堂々巡り」
 ということで、ほとんどの人が、その瞬間から、
「諦め半分」
 という気持ちになるというのも無理もないことだろう。
「科学者であったり発明家というのは、最初からあきらめの気持ちが生まれれば、その瞬間で、終わりだ」
 といってもいいだろう。
 そんな、
「ロボット開発」
 であったり、
「タイムマシン」
 というものに、
「決定的な矛盾」
 というものがあることで、
「近未来の予想図」
 というものが、
「ほとんど達成されていない」
 といってもいいだろう。
「ロボット工学三原則」
 の話を描いた人の小説でいうところの、
「近未来」
 というのは、そのほとんどが、今の時代からみれば、
「過去のこと」
 ということであり、小説を書いた本人も、
「まさか、本当に、自分の書いた近未来に、ロボットが開発されていない」
作品名:循環という限界 作家名:森本晃次