循環という限界
「35度の気温というものすらほとんどなく、年間での最高気温が、33度くらいだったのではないだろうか?」
だから、
「40度などというと、まるで未知の世界」
という感覚だったのだが、今では、
「気温40度」
というのは、
「毎年に一度くらいは起こっている」
という時代になっている。
「35度以上を猛暑日」
というが、映画があった頃にも、言葉としての、
「猛暑日」
というのはあったのだろうが、実際には存在していなかったので、ほとんど誰も聞いたことはなかっただろう。
そもそも、
「35度以上というと、体温にほぼ近いくらいではないか?」
ということで、実際に、
「想像を絶する」
というくらいだったに違いない。
考えてみれば、
「風呂であったり、温泉というと、42度や43度くらいなのに、気温が40度というと、体温がそこまで上がると、死が近い」
といってもいいだろう。
「風が吹けば、普通であれば涼しいのだろうが、逆に暑い」
ということになる。
それこそ、
「熱湯の風呂の中で、お湯をかき混ぜると、熱くてたまらない」
というのと同じ現象である。
完全に、そのままずっと表にいると、
「脱水症状になり、呼吸もままならない」
ということで、体温が急上昇し、
「熱中症となって、死んでしまう」
ということになるだろう。
ただ、さすがに、平成に入った頃は、
「まだまだ耐えられる熱さだった」
ということもあって、クーラーをつけなくても耐えられた時代だったのだ。
しかし、それが、世紀末くらいになると、一気に異常気象というものが出てくるようになる。
「梅雨明け早々から、まだ七月なのに、毎日の最高気温が、35度が続く」
などということになった。
その頃から、
「熱中症」
という言葉が言われるようになった。
実際には、これも、
「言葉としてはあったのだろうが、そこまで目立たなかったので、皆にとっては、新しい言葉」
という意識だったに違いない。
そもそも、
「公害問題がもたらしたもの」
といっても間違いではないが、正確にいえば、
「公害問題というのも、結局は結果論ということであり、異常気象というものと同じレベルで考えてもいいかも知れない」
とも考えられる。
実際には、
「高度成長が公害問題を発生させ、その公害問題がプロセスということになり、異常気象が生まれた」
といってもいいかも知れない。
ただ、それを、
「公害問題」
というものと、それから以降に起こる、
「異常気象」
などによってもたらされたものが、
「空想物語」
ということで、
「怪獣の発生を生む」
ということになるというのは、
「先見の明があった」
といってもいいだろう。
もちろん、
「近未来」
というものへの発想が、
「SF」
というものを生むということであるが、
「近未来の発明」
ということで言われたものとして、
「ロボット開発」
というものと、
「タイムマシン」
というものが大きかった。
もちろん、
「コンピュータ」
などというのも、近未来における、
「未来予想図」
といってもいいだろうが、実際に、
「コンピュータ開発」
というものに関しては成功している。
しかし、
「ロボット開発」
あるいは、
「タイムマシン開発」
というものは、50年以上も経った今でも、その先に見えているものが、
「あくまでも空想でしかない」
ということに変わりはないのだ。
そもそも、この二つには、
「大きな壁」
というものがあった。
「理論的な不可能」
といってもいいだろう。
タイムマシンというものは、特に、小説であったり、映像作品でも作られているということで、
「開発は不可能」
と言われても、
「やっぱり」
と誰もが思うことだろう。
それが、いわゆる、
「タイムパラドックス」
と言われるものだ。
これは、
「過去に戻って、過去を変えてしまうと、未来が変わってしまう」
ということになる。
過去に戻って未来を変えてしまうと、それを意識せずに、
「元の時代に戻ろう」
ということを考えたとして、未来に戻った時、
「果たして自分のいた未来がそこに存在しているのだろうか?」
ということである。
「過去を変えてしまったのだから、変わった瞬間から、戻った未来というのは、当然まったく変わっている」
ということになる。
「じゃあ、過去に戻って、変えた過去を元に戻せばいい」
ということになるのだろうが、問題は、
「過去がいつ変わってしまったのか?」
ということになるわけで、実際には、
「その変えてしまった過去よりも、少し前に戻り、変えてしまったことを変わらないようにしないといけない」
ということになる。
しかし、実際には、
「過去を変えてしまった」
という意識がないのに、現象として、
「過去が変わった」
ということが分かるだけなので、
「どこをどう変えてしまったのか?」
ということが分かっているわけではなく、もっといえば、
「時系列としての、歴史の何が正しいのか?」
ということが分かっているわけではないので、
「何をどうただせばいいのか?」
ということが分かるわけはない。
つまりは、
「過去を変えてしまうであろう危険性のあるタイムトラベルは、絶対に禁止だ」
といってもいいだろう。
だから、そういう発想がいろいろ生まれてくることから、
「時間を使ったSF小説」
というものが結構あるというのも、分かることであった。
その発想は、ここ数十年というだけではなく、もっと昔からあったのかも知れない。
というのは、
「太古の昔からあったのでは?」
と考えられることもあり、
「その例として、浦島太郎の話などがそうではないだろうか?」
と考えられるのだ。
「浦島太郎は、竜宮城に行き、帰ってくると、知らない世界だった」
ということである。
とすれば、
「浦島太郎が、カメを助けた」
というのが、
「実は、過去の歴史を変えた」
ということではないだろうか?
本来であれば、カメはそこで、なぶり殺しに遭っていたのが、
「正しい歴史」
だったものを助けてしまったことで、歴史が変わってしまった。
竜宮城では、それを分かっていて、自分たちが、制裁を受けるということを覚悟して、浦島太郎を竜宮城に招き入れ、もてなすふりをして、浦島太郎に、制裁を加えたのかも知れない。
だから、陸に戻った時、
「見たこともない世界」
つまりは、
「変えてしまった歴史」
がそこにあったと考えれば辻褄が合う。
玉手箱で老人にするというバットエンドにしたのも、その思惑があったからだろう。
しかし、乙姫は太郎を愛してしまったことで、太郎を助けたいと思った乙姫は、単独で陸に上がり、自分はカメとなって、太郎をツルにして、二人は未来永劫幸せに暮らしたという話にしたのであった。
これも、
「タイムパラドックスの変形」
ということで考えれば、実に辻褄が合う話である。
そしてこの場合、浦島太郎という話は、
「時間的なパラドックス」
ということではなく、
「異次元の世界」



