循環という限界
「理屈的には、無限という発想から、未来を創造することは可能ではないだろうか?」
ということである。
ちなみに、ここでの、
「そうぞう」
という言葉であるが、
「未来へのそうぞう」
というものは、
「想像」
ではなく、
「創造」
というもので、
「思い浮かべる」
という、発想ではなく、
「新しいものを作る」
ということでの、
「創造」
という言葉が当てはまる。
つまりは、
「自分の中で、納得のいくこと」
という発想になるのであった。
「自分で納得がいかない」
ということは、
「形があるもの」
ということにならず、少なくとも、
「創造ではない」
ということになる。
「想像」
というものの中には、
「創造」
というものが含まれるということで、
「創造」
というものは、
「実際に物理的に作り上げるもの」
というだけではなく、
「頭で考えたものがなければできない」
ということであり、この優先順位としては、
「最終的に、頭で考えられたもの」
ということになるのだ。
それだけ、何かをする場合の出発点というのは、
「頭で考えたこと」
ということになり、逆にいえば、
「頭で考えることができないものは、人間社会の中で、存在することのないものではないか?」
といえるのではないかと考えるのだ。
人間にとって、
「考える」
ということは、
「自分で理解できる」
「納得できるもの」
といってもいいだろう。
「パラレルワールド」
というものがあるが、
「この世界には、ある時空から分岐した、もう一つの別の世界がある」
という発想から生まれている。
つまりは、
「異次元」
であったり、
「異世界」
というものとは違う世界であり、
「次元」
という発想からであれば、
「同じ世界だ」
といってもいいだろう。
これらの世界は、
「過去を変えてしまうと現在も変わってしまう」
という発想である、
「タイムパラドックス」
という発想の、
「派生型」
といってもいいかも知れない。
同じ発想としての、
「次の瞬間」
ということで、
「無数の可能性」
という発想が生まれ、この発想が、
「フレーム問題」
とつながっているとすれば、
「ロボット開発」
「タイムマシンの発想」
さらには、
「並行世界」
と言ったSF小説と言われるジャンルは、
「ひょっとすると、すべての発想からつながっているのかも知れない」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「パラレルワールド」
と呼ばれる、
「並行世界」
というものが本当に存在しているというのであれば、その世界には、
「もう一人の自分」
というものが存在しているといえるのではないだろうか?
それが、
「同一次元」
あるいは。
「同一時間」
ということで存在するのが、ドッペルゲンガーというものであるがら、当然、
「パラレルワールドに、もう一人の自分が存在している」
ということであれば、それがドッペルゲンガーであることは明らかというものである。
ということは、
「ドッペルゲンガーというのを見ると、近い将来死ぬ」
という都市伝説があるが、
「死ぬかどうか」
というのは別にして。
「ドッペルゲンガーを見ることができる」
ということになるわけで、つまりは、
「パラレルワールド」
というものを、この世界から、体感することができるといってもいいのではないだろうか?
ただ、
「近い将来には死んでしまう」
という都市伝説が、本当なのかどうか。
それは、
「結果論」
なのかも知れない。
ただ、理屈としては、
「見てはいけない」
というものを見てしまったということで、死んでしまったということであれば、今まで、世界各国、太古の昔から、神話であったり、おとぎ話などの中で、言われてきた、
「見るなのタブー」
というものを、別の角度から証明していることになるのではないだろうか?
あおいは、そんなことを考えていると、
「パラレルワールド」
と呼ばれる世界に、もう一折の自分が存在していて、その人もこちらの世界の自分の存在を意識しているのではないか?
と考えた。
「ひょっとすると、お互いに相手のことを意識していると、いずれどこかで会うかも知れない」
と思えたのだ。
それこそ、
「SF小説」
のような発想で、
「そういう発想をしていると、どんどん発想が豊かになってくる」
と感じた。
そう思うと、
「忘れないように書き留めておこう」
と感じると、それを、小説にしてみたいと感じるのであった。
正直、文章力には自信がないので、せめてメモ書きとして、残しておくようにすればいいと思うのだった、一種の、
「備忘録のようなもの」
といってもいいだろう。
ただ、そんな中でも、
「パラレルワールドに存在するもう一人の自分と出会った」
という発想の小説を書いてみようと考えていた。
そもそも、あおいは、
「人と同じ発想ではいやだ」
という思いを抱いていた。
実際に、SF小説というのを、それまではあまり読んだことはなかった。
どうしても、日本の小説界では、
「SF小説というジャンルは弱い」
という意識が強く、
「SF小説というのを読んでみると、今までの自分が発想できる範囲でしかない」
という思いがあった。
今まで、SF的な発想をしていると、
「いくらでも、発想としてつながっていき、SFの世界を考えていると、時間を感じさせない」
というほどに、発想が広がってくるような気がしていた。
しかし、実際には、そこには、
「無限ではない」
という思いが募るのだ。
そもそも、
「SFの世界」
というものを考えた時、あおいの中での、
「納得できる定義」
としては、
「無限であってはいけない」
というものであった。
「あくまでも、無限の可能性を絶えず持っていないと、SFというジャンルには当てはまらない」
と考えていたのだ。
「そもそも想像なのだから、無限であってもしかるべきだ」
と考えていた。
それができるのが人間というものであり、
「だからこそ、フレーム問題を人間は解決できている」
ということになるのではないだろうか?
そして、SF小説を書いている人は、
「そこに限界というものを感じる」
ということによって、辻褄が合わなくなったことで、
「昔の人はその辻褄合わせというものに、ドッペルゲンガーの逸話を考えたのではないか?」
と考えたのだ。
つまり、
「ドッペルゲンガーというものを見ると、近い将来死んでしまう」
ということである。
これこそが、
「無限と限界」
というものを考えた時、生まれてくるものだといえるのではないだろうか?
未知との遭遇
「限界がある」
ということは、言い換えれば、
「同じことを繰り返している」
といってもいいだろう。
本来なら、
「時系列」
ということで、絶えず、
「時空は動いているもの」
ということだから、
「限界などあるはずはない」
といえるのではないだろうか・



