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循環という限界

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 というものを予知できないはずなのに、絶対的に、
「未来というものがやってくる」
 ということになるのだ。
 となると、
「人間には、フレーム問題にかかわることなく、無限に広がる可能性を解決できる何かを持っている」
 ということになる。
 つまり、
「未来において、フレーム問題の解決策というものがあり、それを人間は無意識に分かっている」
 ということになるのではないかと考えられる。
 人間が、
「無意識に意識する」
 ということですぐに思いつくことといえば、
「路傍の石」
 というものである。
 河原などに落ちている石であるが、それらの石というものは、
「目の前にあっても、意識はしない」
 ということであり、
「その他大勢」
 という意識しかない。
 しかし、これが、もし、
「石の方から人間を見る」
 ということになれば、
「見つめられているという意識から、恐怖や、気配というものを示すに違いない」
 ということから、
「石には意識がない」
 と考えられるが、
「人間には、相手の身になる」
 ということができるのではないか?
 と感じた、あおいは、そこで、
「中学時代に見た絵」
 というものを思い出したのだった。
 絵を見ていて、
「双方向からを意識する」
 ということが自分にはできると思ったのだが、成長するにつれて、
「それこそ、人間の本能というものではないか?」
 と考えるようになったのであった。
 人間というものが、
「鏡を見た時、双方向から見ることができる」
 という意識を、無意識に感じているということを感じたのも、
「路傍の石」
 という意識であり、さらに、
「中学時代に見た絵」
 だと思ったのだ。
 だから、
「中学時代に見た絵」
 という感覚は、
「誰にでも、一度はある経験というのではないか?」
 と感じた。
 だからこそ、
「忘れているつもりでも、いつでもすぐに思い出せる引き出しに控えている記憶だった」
 といってもいいのではないだろうか?
 人間には、
「意識」
 というものと、
「記憶」
 というものがある。
 それぞれ、格納されるところは違っているというわけで、最初は、感情がある間には、
「意識」
 というものとして格納され、
「瞬間事の判断に用いられることになる」
 といえるだろう。
 だから、人間には、
「無限の可能性の中から、瞬時に判断ができる」
 ということなのだろう。
 それが、
「生物における本能」
 というものになるのではないだろうか?
 そして。その意識の格納場所というところには、限度があるというものだ。
 実際に、
「意識」
 として使うためには、
「意識」
 というものを、
「判断材料とするために、加工する」
 という機能が備わっていないといけない。
 しかも、遅れることのない瞬時でなければいけないということで、その容量というのは、果てしないといってもいいだろう。
 だから、
「意識として格納できる期間は短いものだ」
 人間が
「覚えている」
 という意識として判断できる期間が短いのは、そのためである。
 しかし、過去の意識を、圧縮する形で格納しておく場所を作っておいて、そこに、
「その人の過去の意識を、別の形で格納する場所」
 というものがあるとすれば、それが、
「記憶の格納庫」
 といってもいいだろう。
「瞬時の判断」
 というものに使うわけではなく、
「過去の記憶」
 つまりは、
「忘れてはいけない」
 と自分で意識したことを格納しておく場所である。
 その記憶というものは、
「忘れたくない」
 という本人にとって、
「大切なこと」
 ということであり、また。
「思い出すことで、自分に有利になる」
 という、
「自分にとって、間接的に大切なこと」
 ということであり、もう一つは、
「教訓になる」
 という意味で、
「忘れてはいけないもの」
 となるのだ。
 この場合は、ある意味、一番、
「忘れてはいけない」
 ということであり、
「自分が危機に陥った時、助けになる」
 ということになるものではないだろうか。
 それこそが、
「本能だ」
 と一般的に言われるものではないかと考えるのだった。
 過去において、必要なものがたくさんある中で、
「意識」
 であったり、
「記憶」
 というものは、
「本能」
 ということで必要であり、
「判断」
 ということで、
「フレーム問題が解決できる糸口になる」
 といえるだろう。
 このメカニズムが解決できれば、
「ロボット開発」
 というものにおける
「タブー」
 というものが解決されたといってもいいだろう。
「ロボット工学三原則」
 というものも、この
「フレーム問題」
 というものが解決できれば、
「芋づる式に解決されるだろう」
 といえるのではないだろうか?
「過去というものにおいて、人間というのは、双方向で解釈することができる」
 と考えれば、
「未来においても、同じことがいえるのではないか?」
 と考えるのであった。
「現在というものを、中心点ということにして、そのまわりを、時間軸から考えて、左右対称だ」
 ということで考えると、ここでまた注目すべきものというと、
「合わせ鏡」
 という発想になる。
 いや、
「発想が戻ってきた」
 といってもいいだろう。
「合わせ鏡」
 というものが、
「限りなくゼロに近い」
 という発想から、
「一直線の時系列」
 という発想になり、
「未来につながっていく」
 というものだと考えると、
「過去から未来につながる直線」
 というのは、
「一直線で考える時の、理屈でも説明できる」
 ということになるだろう。
「自分を納得させることができるかどうか」
 ということで、先に進めるかどうかが決まる。
 それを考えると、
「未来への時系列における一直線」
 というのは、
「理屈という一直線でつながっている」
 といってもいいだろう。
「現在から見て。左右対称」
 ということを考えると、
「合わせ鏡の発想にもなる」
 というわけで、
「無限である」
 という理屈も、
「限りなくゼロに近い」
 という発想も結びついてくるということになる。
 すると、
「人間が、最後には死んでしまう」
 ということは、
「無限ではない」
 ということになるが、それは、あくまでも、
「人間の無限性ではなく、人間社会の無限性」
 ということになると解釈できるだろう。
 しかし、これを宗教的に考えて。
「輪廻転生」
 だと思えば、
「一度人間に生まれてきた者は、死んだとしても、人間に生まれ変わる」
 という発想もありえると思える。
 確かに、
「地獄に行った人間は、再生することができず、地獄にいることになる」
 という発想であったり、
「地獄に落ちれば、人間以外の他の動物に生まれ変わる」
 という発想などから、
「地獄に行けば、少なくとも、人間に生まれ変わることはできない」
 ということになるだろう。
 それを打ち消す発想というのは、
「輪廻転生」
 であったり、
「人間社会の無限性」
 という考え方から生まれるとすれば、
作品名:循環という限界 作家名:森本晃次