表裏のスパイラル
それなのに、
「自分が作った人間が堕落した」
ということで、人類を滅ぼしてまた一から時代を作っていくということであった。
ここでのミソは、
「一から」
ということで、
「ゼロからの再出発ではない」
といえるだろう。
ゼロにしてしまえば、取り返しがつかないといってもいいということになるのかも知れない。
つまりは、
「ゼロというのは、なってしまえば、最初から存在しなかった」
ということと同じである。
だから、
「どんなに細分化しようとも、人間の社会で、存在していたものが、ゼロになる」
ということはありえないことなのだ。
つまりは、
「限りなくゼロに近い」
というものであり、それは、
「無限」
ということを示している。
つまりは、
「人間社会において、ゼロというものは、理論的には存在するが、実際にはありえない」
ということを示しているということである。
だから、
「ノアの箱舟伝説」
というものは、
「ゼロということにせず。一からの出直しになる」
ということで、再出発などの場合も、
「ゼロから」
という言葉を使わずに、
「一から」
ということにするのだ。
その証拠として、数学的に。
「ゼロに何を掛けても、ゼロにしかならない」
ということである。
それを証明するために行う、
「逆算という考え方」
をするとき、
「何かをゼロで割ろうとした時」
という数式が思い浮かぶのであるが、それを、
「数学的に証明しよう」
ということはありえないのである。
コンピュータの世界では、
「解なし」
ということで、答えは存在しないということになり、その解決方法として、
「もし、ゼロ除算ということになった場合は、そこで計算せずに読み飛ばしたり、あるいは、ゼロになってしまった数字が出てきた時、便宜上、一という数字をあてはめる」
などというやり方をするという方法くらいしかないだろう。
それを、
「聖書というものは、分かっている」
ということではないだろうか?
「太古の昔から、そんな数学が割り出されていたなんて」
と今の時代の人間からすれば、きっとそう思うだろう。
しかし、さらに昔のピラミッドというものを考えた時の
「幾何学的な位置証明」
というものは、
「モノが腐りにくい」
ということであったり、
「何かの言い知れぬパワーがみなぎっている」
ということがまるで、
「都市伝説のように、まことしやかに叫ばれている」
といってもいいだろう。
ただ、もっと考えれば、
「今の時代の人間が、時系列で過去を積み重ねてきて、過去を分かっている」
ということから、
「一番優れていて当然だ」
と思っていることだろう。
だから、
「時代をさかのぼる」
ということは、あくまでも、
「原始」
ということであり、
「過去より現在、現在よりも未来というものが勝っている」
ということが当たり前だというのであろう。
それこそが、
「プライド」
というもので、
「そのプライドがある」
ということで、
「そのプライドが、時系列である」
ということと無関係ではないかと考えることが、自分の中で、
「間違っているのではないか?」
という考えを、少しでも起こさないように、その考えを植え付けるということになるのだろう。
だから、
「プライドというものは、たぶん人間しか持っていないものであろう」
と考えられる。
だから、
「プライドというのは、一番人間らしい」
といえるのではないだろうか?
そういう意味で、
「プライドというものが、一番深く残っている物語や聖典というものは、ギリシャ神話ではないか?」
と思えるのだ。
それこそが、
「オリンポスの神々」
と言われるもので、神話を呼んでいると、
「これほど、人間臭いものはない」
といってもいいだろう。
ただ、神話の中にある、神の様子を見ていると、それは、
「プライド」
というよりも、
「嫉妬」
であったり、
「妬み」
というものが入っているのだ。
それは、神話の中で、
「神が一番偉いもの」
ということで描かれているが、実際には、
「一番偉いのは、人間」
ということで、遠回しに、
「神であっても、嫉妬であったりというものをもっている」
というのは、
「人間の悪いところだけを凝縮し、いいところは、神様オリジナル」
という考え方で、
「神を創造した」
と考えて、改めて、
「人間と神を比較した時。人間らしいと思えるのは神の方だ」
ということで、それこそ、
「神と言われているものが、本来は人間なのではないか?」
ということで、
「人間が神を作ったのではなく、本当は、神を作ったのが人間」
という、理屈から考えれば当たり前のことになるのだ。
それは裏を返せば、
「神なるものの存在というのはなく、あくまでも、人間が、自分に似せて作ったもう一つの存在」
ということでの、まるで、
「ドッペルゲンガーのようなものではないか?」
ということになるであろう。
神と人間というものに、どのような違いがあるというのか? もし、他の動物から見れば、ひょっとすると、人間というものを、
「神のような存在」
として見ているのかも知れない。
「神というのは、怖いものだ」
という存在であり、他の動物ではどうか分からないが、人間というのは、自分たちの中に、階級を作り、奴隷化などをすることで、自分のマウントを取ろうとする。
「逆にそうでもしないと、生きていけない」
という、
「弱い存在であるがゆえに、自分だけを優位に見せようとする」
という、そんな動物なのかも知れない。
そこに、プライドというものが存在することで、それが、
「正なのか、悪なのか?」
それとも、
「必要悪なのか?」
そのあたりは難しいところである。
最初の脅迫状
まず最初に舞い込んだ脅迫状であるが、そちらには、
「子供を誘拐したので、身代金に五千万円用意しろ」
と書かれていた。
誘拐された子供の家庭は、地元では大手の会社ということで、五千万円くらいであれば、
「子供のため」
ということで、そこまで困窮する値段ではなかった。
むしろ、
「無事に帰ってくるということであれば、安い方だ」
と思ったに違いない。
もちろん、そんなことは決してまわりにいうわけではない。そんなことを言ってしまえば、まわりから、
「不謹慎だ」
と思われることだろう。
ただ、金持ちであっても、貧乏であっても、誘拐された子供がかわいいという思いに変わりはない。それを思えば、
「身代金で助かる」
ということが分かっただけでも、
「藁にもすがりたい」
ということで、よくテレビなどで、金持ちが命乞いをする時、
「お金ならいくらでもやるから、殺さないでくれ」
といっているのをよく見たりする。
確かに、お金があるからいえるということであり、冷静に考えると、
「お金での命乞いは、普通に考えれば当たり前のことである」
といえるだろう。
一般人であれば、絶対に払えないようなお金を、被害者が持っているというだけで、被害者だって、