表裏のスパイラル
「目の前の被害者を助けようとする」
というのは当たり前のことであろう。
そうなると、キャリア組からは、
「自分たちの邪魔をした」
ということで、総統叱られるに違いない。
なんといっても、彼らとすれば、
「警察の組織を守る」
ということが、
「市民の平和を守る」
ということよりも大切だと思っているからである。
警察の方針として、
「検挙率を挙げる」
ということが大切なことだと言われている。
それは当たり前のことで、
「起こってしまった犯罪を解決するために、警察は存在している」
ということだからである。
しかし、
「警察というのは、犯罪を未然に防ぐというのが本当の存在意義なのではないか?」
と考えている人もいる。
そういう人からすれば、
「絶えず、現場や町の様子を監視して、
「犯罪が起こらない町にする」
ということが大切だと思っているだろう。
しかし、実際には、
「犯罪を未然に防いだ」
といっても、形としては出てくるわけではない。
犯行を計画していた人たちが、
「警察組織の目が光っているから、計画していた犯罪を辞めた」
などということを、口が裂けてもいえるわけはないからだ。
だから、
「検挙率」
というもののように、
「ハッキリとした数字になって表れるわけではない」
といえるだろう。
だから、上層部は、
「数字としてハッキリと表れるものを重要視する」
ということで、国民に対して、
「警察は成果を上げている」
ということを示す必要があるということである。
つまりは、
「信頼できる警察」
ということを市民に示すことで、市民に対して安心感を与えることができるということと、
「その後の、いろいろな操作において、市民が快く協力してくれる」
という、信頼を与えられるということになるだろう。
確かにその通りであり、そういう意味で、
「数字は大切だ」
といえるだろう。
だから、上司から、このように説得されると、
「警察組織の考え方に同調する」
という発想になってしかるべきだ。
だから、
「警察というものは、市民の手本にならなければいけない」
ということになり、市民の方も、
「市民の手本が警察だ」
ということで、
「警察にはなるべく協力する」
ということになるのだ。
そういう意味で、
「市民の安全を図り」
という意味では、そのどちらも間違っていない。
市民に安心感であったり、信頼感を持たせることが、警察の捜査において、
「やりやすさをもたらす」
ということで、ひいては、
「市民の安全と財産を守る」
ということになるだろう。
だからといって、目の前で、
「助けなければいけない事件」
というものが起こっていて、
「大きな事件を解決するために小さな事件を見逃してはいけない」
ということで、目の前のことを助けるのを優先するというのは、無理もないことであろう。
だが、
「どちらが正しいのか?」
ということになると、分からない。
その時点で答えが出ているとも限らないし、
「その瞬間だけの判断」
ということであれば、
「何をおいても、目の前の事件が、最優先」
ということになるだろう。
しかし、もし、それが、ただの痴話げんかのようなもので、本当は、
「逃がしてはいけない大きな事件の犯人を取り逃した」
ということであれば、
「その人物を、その時逃がしたために、他にたくさんの泣いている人がいるということである」
というこであれば、
「果たして、目の前の事件を解決するのが正しかったのか?」
ということである。
きっと、大きな犯罪ばかりを見てきた、
「キャリア組」
から考えると、
「大きな事件を逃してしまうと、被害者が未曽有の大惨事となる」
というくらいの大事件になりかねないということを分かっているのだろう。
それを、
「下々の捜査員にいくら話をしても、分かるというものではない」
といえるだろう。
だから、
「警察というものにおいて、正解が何かというのは、しょせんは分からない」
といってもいいだろう。
それぞれの立場から、何が正解なのかというのは分からない。
実際に、
「もし、その時見逃してしまったことで、その小さな犯罪を防げなかった」
ということになれば、
「その時点では間違っていた」
ということになるだろう。
しかし、それを見逃して、将来起こるべき犯罪を、未然に防げたとすれば、
「その時点での判断は正しかった」
といえる。
しかし、それを立証することは不可能である。
そもそも、その時に、反対の判断をした場合、
「その時に決めた判断と比べて、どちらが、被害としては大きいのか?」
というのは分からない。
「たられば」
というのは、歴史においてはありえない。
ということであるが、それは、
「時系列」
ということからいえることであろう。
「つまり、その時の答えというのが、いつ出るのか?」
ということは分からないのである。
その瞬間が答えなのかも知れない」
ということであるし、
「その瞬間はあくまでも、過程ということであり、その結果が何なのか?」
ということが分からない以上、
「歴史が答えを出してくれる」
というのは、ありえないことだといってもいいだろう。
以前、クーデター映画で、結果、
「そのクーデターというものは失敗した」
ということになったのだが、その映画の言葉に、首謀者の一人が部下に対していった言葉に、
「歴史が答えを出してくれる」
というセリフがあった。
歴史を知っていて、
「本当の答えが分からない」
という理屈を考えれば、
「失敗したクーデター」
ということで、
「事件を引き起こしたことの言い訳」
としか映らないのだ。
そもそも、そのクーデターというものも、それぞれの立場から考えれば、
「起こした方は正しい」
ということになり、
「起こされた方は、間違いだった」
と主張することだろう。
そもそも、クーデターというものは、
「お互いに主張が正反対」
ということだから起こるというもので、その時点で、
「双方、正反対の主張が存在する」
ということで、
「どちらかが正しければ、どちらかが間違っている」
ということで、
「正悪というものを、ハッキリさせる」
ということになる。
ただ、
「クーデターということで事件が起こってしまえば、その収拾に対しては、どちらかが正義、どちらかが悪ということではっきりさせなければいけない」
ということになるだろう。
つまりは、
「どうしても、正悪をつける必要がある」
ということで、それが、結論としての、
「司法による裁判」
というものにゆだねられるということである。
警察組織の中の、
「キャリア組」
と、
「ノンキャリア組」
というものの対照的なことというのは、まるで、クーデターにおける、
「起こした側」
と、
「起こされた側」
ということになるのであり、結局、収拾をつけるためには、
「こちらかが正で、どちらかが悪」
という、
「正悪を明らかにする」
という必要があるのだ。
だから、終息後に、