表裏のスパイラル
「成功にはおぼつかない」
と言われる、
「営利誘拐」
というものであるが、
「成功はしないが、失敗もしない」
といえるかも知れない。
というのは、
「身代金受け渡し」
ということに関しては、成功にはおぼつかないが、
「警察に捕まらない」
ということであれば、
「成功するかも知れない」
ということである。
ただ、問題は、
「誘拐した子供に顔を見られた」
ということで、本当に、
「生かしておくわけにはいかない」
ということから、元々の
「営利誘拐」
というものが、
「殺人事件」
というものに発展したということになれば、事情は変わってくるということである。
そこから、
「足がつく」
ということで、犯人が捕まりやすくなるということであるが、
「警察や被害者の本来の目的」
ということで、
「被害者を助ける」
ということは、
「最悪の結果」
をもたらしたと考えると、完全に、警察の落ち度ということであり、
「せめて犯人を逮捕する」
ということくらいしか、
「霊に報いることはできない」
ということになるだろう。
今回の最初に起こった犯罪は、
「五千万円」
という身代金を最初に提示しておくという、
「脅迫状」
というものが舞い込んできたということであったのだ。
三すくみ
この犯罪は、
「F県警の、K警察署管内」
で起こったものだった。
最初は、
「驚愕上なんていたずらだ」
と思われた。
何しろ、昭和の時代であっても、
「営利誘拐は割に合わない」
というような言われ方をしていたのだから、今のような、
「科学捜査が行き届いていて、普通に脅迫などできるわけはない」
と思われることが起こったのだから、
「いたずら」
であるか、
「狂言誘拐ではないか?」
と言われたとしても、無理もないことであろう。
今の時代は、
「誘拐」
というだけでも難しい。
防犯カメラが至るところに設置してあり、
「子供の誘拐」
ということではないか、
「子供を保護する」
という意味で、世の中が、そういう方向に向いている時代だからである。
「営利目的」
というわけではなく、
「いたずら目的」
ということでの誘拐ということの方が増えているといってもいいだろう。
要するに、
「変質者」
というものによる、
「猟奇犯罪」
というものだったりするのだ。
そういう連中に、
「犯罪計画」
などというものを期待するのが間違いというもので、へたをすれば、
「衝動的に誘拐する」
ということもあり得るのではないか?
だから、犯人にとっては、
「警察に捕まる」
ということは、眼中にないといってもいいかも知れない。
「子供にいたずらできればそれでいいんだ」
ということで、一種の、
「精神疾患者による犯行」
ということであれば、へたをすれば、
「何をするか分からない」
ということになる。
だから、
「これ以上すると罪が重くなる」
などという発想はないので、それこそ、
「子供を殺す」
ということに、罪の意識もなければ、
「子供を殺すことで、自分がどんな罰を受けることになるか?」
という意識もないかも知れない。
分かっていたとしても、
「自分の中の欲望や衝動を抑えられない」
ということで、最終的に、
「どうなってもいい」
という考え方が、強くあることで、
「衝動的な犯罪が多くなる」
ということで、警察としても、
「へたに動けない」
と考えられる。
しかも、そんな犯罪者というものは、人間性ということであるが、
「時代が作ってきた」
といってもいいかも知れない。
昭和の頃ではありえないようなことであった、
「児童虐待」
などと言われるものを、
「子供を守るべき人間の一番手である親」
というものが、
「子供を虐待している」
という時代である。
さらに、平成の初期くらいの頃から、
「苛め」
という問題が起こってきて、
「学校に行くのがこわい」
ということから、
「不登校」
ということになり、
「引きこもり」
というものが増える時代になってきたのだ。
確かに、昭和の頃から、
「苛め」
というものに似たものはあった。
それは、
「いじめっ子」
「いじめられっ子」
という双方のことをそう呼ぶ時代であった。
というのは、
「いじめっ子にも、いじめられっ子にも、それぞれに問題があり、最終的には、どこかで和解をし、いじめはなくなる」
ということであった。
しかし、平成になっての、
「苛め」
というのは、昭和までの、
「いじめっ子」
と
「いじめられっ子」
という、それぞれの立場から考えることができる時代ではなく、
「苛め」
というのは、
「一方的に虐める方にだけ理由がある」
というものであった。
いや、
「理由がない」
ということが理由だといってもいい。
つまり、虐めている方も、自分でもその理由を分かっていないのである。
とにかく、
「むしゃくしゃするから、その苛め対象を虐める」
というだけのことであり、
「理由なき苛め」
ということで、虐めている本人も、どこかに罪悪感のようなものがあり、それでも辞めることができない自分に業を煮やしているということなのかも知れない。
それを考えると、
「苛め」
というのは、
「れっきとした理由がない」
ということであれば、昨今の、
「親による児童虐待」
というのも、正直、ハッキリした理由がないといってもいいだろう。
しいていえば、
「自分が抱えているストレスを、子供にぶつける」
ということではないだろうか。
それであれば、
「平成に入ってからの、いじめ問題というものの理由というのも、本人における、ストレス発散」
というものが、その理由だということになるだろう。
つまりは、
「他からのいじめを、別の人で晴らす」
というやり方である。
ハッキリいえば、
「弱い者虐め」
ということになるのだろう。
これは、
「弱肉強食」
というものとは明らかに違う。
弱肉強食というものは、
「自然の摂理」
ということで、
「どうすることもできない自然の流れ」
ということから、
「やむを得ず、食べてしまわないと、自分たちの種の保存ができない」
ということからのものであろう。
しかし、人間というのは、
「自然の摂理」
であったり、
「弱肉強食」
という理念ではないところで、同胞を殺すということをするのだ。
もちろん、
「それぞれに言い分というものがある」
ということから、
「人類の歴史が始まってから、殺し合いというものが、永遠になくならない」
と考えると、
「殺しあう」
ということが、
「自然の摂理」
というものと同じ理屈としての、
「人間界の摂理」
というものではないか?
と考えたとしても、
「それは、無理もないことかも知れない」
といえるのではないだろうか?
一通目の脅迫状が、
「身代金、五千万円」
という形で、
「F県警K警察署管内」
に舞い込んでから、一週間が経った時であった。
実際に、
「脅迫状」