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夕凪の時間

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「せっかくのパンデミックというものが勢力を落とし、やっと経済復興できる」
 という状態で、今度は、
「世界的な物価高」
 というものに見舞われるようになった。
 それが、
「世界的なパンデミック」
 というものによる
「後遺症というわけではない」
 ということは分かっているだけに、
「国民も政府も、戸惑っている」
 といってもいいだろう。
 それでも、町では、何とか復興が少しずつ進んでいて、
「この街も少しずつ活気が取り戻されていて、気分的に落ち着いてきた」
 ということからか、
「昭和の名残のある喫茶店」
 であったり、
「隠れ家的な店」
 ということで安心できる。
「場末のバー」
 ということで、ひそかに話題になりかけていた。
 その証拠が、
「馴染みの常連客というものが、徐々に増えている」
 ということで、それが口コミとなって、
「地元情報誌や、ケーブルテレビなどの取材を受ける」
 という機会が増えてきたのだった。
 それを考えると、
「昭和レトロを匂わせる」
 ということでの、店のコンセプトは、
「ひとまず成功である」
 といってもいいだろう。
 そんな店で、もう一つ話題になったのが、
「昼と夜で店の名前が変わる」
 ということであった。
 中には、
「昼にはいくことは多いが、夜にはいったことがない」
 という人、または、
「その逆」
 という客が結構多いという。
 行きたくないわけではなく、むしろ見てみたい」
 と思っているにも関わらず、昼の常連さんが、
「夜も行ってみたい」
 と思っていこうとするのだが、なぜか、店の近くまで行くと、
「ああ、やっぱりやめておこう」
 という考えに至るというのであった。
 この店は、昼間は、
「喫茶コスモス」
 という名前であった。
 店の雰囲気も花がいっぱい飾ってあり、音楽もクラシックが流れていることで、ほのぼのとした雰囲気の中で、客は、各々好きなことができる時間を堪能できているのであった。
 そもそも、
「喫茶店というのは、常連がほとんどで、自分たちの時間を楽しむ」
 というものではないかと、オーナーは思っていた。
 だから、昼間は店主を置いてはいるが、マスターも店にいて、自分で、サイフォンでコーヒーを作ったりしている。
 店長は、以前から仲間意識があった人で、前いた、
「経営コンサルタント会社」
 の仲間であった。
「いずれは、自分で会社を経営したい」
 ということを思っていたのだが、望みは叶わなかった。結局、同じ時期に定年退職ということになり、
「うちの店で店主をしてくれないか?」
 と誘うと、
「手伝わせてもらうよ」
 ということで、乗ってきたのであった。
 時間帯も、本人からすれば、申し分のないものであり、実際に店で常連さんと話をするのも楽しかったのだ。
 会社の仕事で、顧客と話をするのは、
「これは仕事なんだ」
 と割り切っているのでできることであるが、このお店では、
「仕事で話をするわけではない」
 と思えることからか、話をしていても、結構楽しかったりする。
 そこには、
「自分から話題をふらないといけない」
 などというプレッシャーがあるわけではなく、それよりも、
「今までのプレッシャーというものに、時間が影響していた」
 ということに気づいたことが、
「この店に来た一番よかったことではないか?」
 と感じるようになったのである。
「会社に勤めている時、時間というものを、絶えず意識していた」
 と今になって思えば感じるのだった。
 会社にいる時は、
「時間に対するプレッシャー」
 というと、
「納期までに間に合うか?」
 という問題は、絶えずあった。
 これは、
「どの会社にいても誰もが感じることだろうから、意識をしていなかった」
 というわけで、
「自分だけが特別に感じている」
 というところまでなければ、そこまで、時間に対しての意識はなかったに違いない。
 しかし、
「学生時代から、社会人になった時、最初に感じた」
 というのは、
「時間への束縛」
 というものであった。
 学生時代というのは、時間というものに束縛されることもなく、自由にできた。
 しかし、これはあとから感じたことであるが、
「学生時代の方が、何か時間を意識していたような気がする」
 というものであった。
 それは、
「四年間という期間」
 を、学生時代は、
「長いものだ」
 という意識を持っていたのだが、
「実際に、四年間を通り越してしまうと、あっという間だった」
 という意識である。
 最初の一年くらいは、
「高校時代までを受験ということで犠牲にしてきた」
 ということで、
「ゆっくりしても、罰は当たらない」
 と思っていた。
 そして、二年生になると、
「やっと、大学生としての楽しみを味わえる」
 と思っていた。
 だから、
「友だちといろいろと遊びに行ったりしたものだ」
 ということであった。
 その遊びに行ったのも、
「旅行に出かける」
 というのが一番多く、その時、
「知り合った女の子と仲良くなる」
 という目標も一緒に持っていた。
 だから、当初の、
「旅行に出かけて、いろいろ観光したい」
 という思いが、途中から、
「ナンパ目的」
 というものに変わってきた。
 これが、
「ついで」
 ということであれば、まだよかったのかも知れないが、目的自体が変わってしまうと、同じものを見ていても、
「何かが違う」
 と感じるようになったのだ。
 その違いというものがどこからきているのか?
 ということを考えると、
「見ている方向が違う」
 ということで、そこに、
「光と影」
 というものの加減から、見えているものの、
「大きさ」
 であったり、
「形そのもの」
 が変わっているように思えるのであった。
 これが、
「大きさ」
 というものであれば、
「錯覚なのだろう」
 と思えるが、
「形そのもの」
 というものが違っているということになると考えると、
「被写体となっているものが、本当は角度によって、見え方だけではなく、その物体自体が違っているのではないか?」
 と感じるのであった。
 そう思うようになったのは、大学二年生の頃で、まさしく、
「旅行に出かける」
 ということが多くなった頃だったのだ。
 だから、旅行に出かけるということが、
「趣味というよりも、自分の生活の主たるもの」
 ということになったかのようで、アルバイトをしたお金も、
「旅行に使う」
 ということで、それが、
「生まれて初めて感じた、生きがいのようなものではないか?」
 と感じるようになったのだ。
「見える形が違う」
 というのは、
「錯覚」
 というものでなければ、どういうものだと解釈すればいいのだろうか?
「精神的な屈折」
 というものを持っているということで、
「精神的な錯覚」
 と考えると、理屈に合うと思うのだが、その感情は、大学三年生になると、少しずつ薄れていき、四年生になると、ほぼなくなってしまった。
 三年生になると、今度は、
「卒業するために、単位を揃えないと」
 ということで、
作品名:夕凪の時間 作家名:森本晃次