夕凪の時間
「寿命を全うできるとは限らない」
というではないか。
事故にあったり、病気で死んだりということであり、それは動物であれば、もっと激しい。
「人間に殺される」
ということもあれば、
「弱肉強食」
という世界で、
「天敵」
と呼ばれる連中に食われてしまうということになるだろう。
しかし、
「自然の摂理」
ということで、
「死んでしまっても、それが、肥料になったりすることで、ぐるっと回って、自分たちの食料になる」
というのが、
「自然の摂理」
と言われるものである。
だから、
「自然の摂理」
ということを考えると、
「犠牲になる」
ということは美学であり、
「耽美主義的なもの」
といってもいいだろう。
その考えが、人間であれば、なぜか、
「間違いである」
と言われることになる。
しかし、人間というのは、他の動物と違って、
「人間だけが、生きるためだけでなく、平気で仲間を殺す」
と言われている。
もちろん、
「すべてを生きるため」
といえるのかも知れないし、
「平気で」
などということはないということなのかも知れない。
それを考えると、
「人間が人間を裁く」
ということが、基本的に許されるのかどうか?
という理屈になるわけであり、それこそ、
「生殺与奪の権利」
という問題にまで関わってくるのかも知れない。
「生殺与奪の権利」
ということを言い始めると、
「そもそも、人間というものを人間が裁くことができるのか?」
というところから始まった議論ということで、
「結局、また戻っている」
ということで、
「結局、大きな円を描いている」
ということになるのだろう。
若者とママ
夜の店もやっと開店できるようになった。
「店はみゆに任せる」
ということにはしておいたが、しばらくは、オーナーも見なければならないだろう。
みゆは、実際にはママに向いているようで、
「若いのにしっかりしている」
というのが、まわりからの評価でもあり、みゆ自身も、
「私にこんな素質があったなんて」
と、正直びっくりしていた。
というのも、さっそく常連さんができた。
数人であるが、想像以上に早かった。
その中に、一人の少年がいて、彼は、
「いかにも童貞」
という雰囲気であったが、話をしていると、
「とても童貞とは思えない」
と感じさせる雰囲気があった。
「まるで、時間を超越しているかのような雰囲気」
というものを感じさせ、気が付けば、
「私、この子のことを気にしてる?」
とばかりに思わせるのだった。
どちらかというと、
「母性本能をくすぐる」
というタイプの少年で、実際の年齢的にも、
「やっと二十歳を過ぎたばかり」
ということで、
「公然と酒が飲める年齢になったので、自分から、常連となる店を探しにきた」
というイメージであった。
実際に常連になってくれた時に、
「どうして、この店を気に入ってくれたの?」
と聞くと、
「ママさんがいるから」
と正面切って、そういうものだから、みゆの方が照れてしまった。
それでも、気持ちはまんざらでもない。
「まんまと載せられた」
という気分になるのだが、そのおかげなのか、
「毎日があっという間に過ぎるような気がした」
ということであった。
彼は、若いくせに、レトロなものが好きだということであった。
「じゃあ、昼間のこの店に来てみれば?」
とみゆが話したので、
「うん、それは楽しみだな」
と少年は答えた。
「でも、昼の店にも来たことがあるような気がするんだよね。ただ、その時間の感覚が、夜のこの店とはまったく違っているような感覚だったので、ひょっとすると、違う店にいるという気がするんだ」
と、不可思議なことを口にしていた。
オーナーも、
「いや、彼を昼間の店で見たことはなかった気がするんだけどな」
といっていた。
それを聞いて、
「君の気のせいじゃない?」
とみゆはそう言って、苦笑いをした。
「俺、自分が、ドッペルゲンガーのような気がするんだ」
という。
「ドッペルゲンガーということは、どこかに本当の自分がいて、今の自分は、もう一人の自分だという発想?」
と聞くと、
「ああ、そうなんだ」
といって、考え込んでいる。
「僕は、ママさんと一緒にいると、そのことを思い知らされる気がするんだけど、でも、なぜか、そう感じる方が気が楽になるんですよ」
という。
「よく分からないけど、安心してくれるのはありがたいわね」
とママがいうと、
「いや、そのかわり、本当の自分は、本当に好きな人に出会っているって気がするんだよね」
「どういうことかしら?」
「それは、ママのもう一人の性格の人と、本当の僕は知り合ったんだよ。その人と、きっと幸せになる気がするんだけど、僕は、それをこの目で確認することができない」
という。
「どうして?」
「それは、僕が、もう一人の自分だからさ。ドッペルゲンガーというのは、もう一人の自分を見てしまうと、近い将来、死んでしまうというだろう?」
「それって、ただの迷信では?」
という。
「確かにそうなのかも知れないんだけど、僕の中では、もう一人の自分を見てしまうと、どちらかが存在することができなくなってしまうということになって、片方の自分に吸収されてしまうと思うんだ。その時に、ドッペルゲンガーの存在を知って、自分が、もう一人の自分であることを知る。本当の自分は、ドッペルゲンガーの存在すら知ることもなく、吸収されるのさ。だから、まるで死んだかのように思われることから、こんな都市伝説が生まれたんじゃないかって思うんだよね」
と少年は言った。
難しいことを話していると、それまで、
「かわいい」
という気持ちから、
「母性本能」
というものが生まれていたのが、まるで嘘のように感じられる。
「相手は、実は、ママさんなんだって、僕は思っているんだ」
「えっ、じゃあ、私もドッペルゲンガーということ?」
と聞くと、
「そうじゃないんだよ、ドッペルゲンガーというものではなく、ジキルとハイド的なものではないかと思うんだ」
と少年は言った。
「ジキルとハイドって、あの多重人格的な?」
と聞き返すと、
「ええ、そうですね。ドッペルゲンガーの場合は、同じ人間なんだけど、肉体が違っているということになる。でも、その二人は、基本的に、同じ次元の同じ時間では存在してはいけないということで、いろいろな都市伝説があるということになる」
「じゃあ、ジキルとハイドというのは?」
「こちらは、一つの肉体に、複数の性格が入り込んでいるというものなんじゃないかな?」
というので、
「よく分からないかも」
とママが、頭を悩ませていたが、
「ジキルとハイドというのは、小説での架空のお話なのよ。でも、ドッペルゲンガーというのは、かなり昔から言われていることで、実際に、もう一人の自分を見たといっていた人が近い将来に死を迎えるということが残っているのよね、それも、著名人であったり、有名人なんだけど、だからこそ、都市伝説と言われているんだよね」
という。