夕凪の時間
「これこそ、不必要善」
といってもいいだろう。
そもそも、ここでいう、
「善」
というのは、本当の意味での善ということではなく、
「善に見える」
ということでの、
「偽善というものだ」
といえるであろう。
「政府は、自分たちの面目と、資金という名の、甘い汁のために、地方を犠牲にする」
ということになるのだ。
「高度成長時代」
ということであれば、
「地方創生」
というものが、
「国を強くする」
と言われていたが、経済が滞ってしまうと、
「中央と地方」
の間での格差というものはかなりひどい状況に追い込まれるといってもいいだろう。
だから、
「中央の犠牲を地方が負う」
ということになり、今のような中央と地方が出来上がったといってもいいだろう。
そんなことでもなければ、
「地方納税」
などという発想が生まれてくるわけもなく、それこそ、
「苦肉の策」
というべきか、それとも、
「背に腹は代えられない」
という感じになるのであろう。
この街は、
「町おこし」
などということをしたわけではない。
「昔のままの町を、そのまま存続させた」
というだけのことである。
「存続させるということが一番難しい」
と言われた時代であったが、時系列で歴史を感じていくと、
「昭和時代を今さら再現させる」
というのは、かなり難しい。
なぜなら、
「意識が、一度平静を通っているからだ」
といえるだろう。
それだけ、時代を時系列に逆らう形で戻させるというのは、
「実に難しいことだ」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「昭和の彩を残した町」
というものが、
「存在しているだけで、奇跡だ」
ということになるだろう。
しかし、
「昭和の時代というのは、今の時代とどこか似通ったところがある」
といってもいいかも知れない。
「歴史は繰り返す」
ということからいえることであるが、実際には、
「それを認めたくない」
という気持ちになっている人も少なくない。
というのは、
「このままいけば、またバブルを繰り返し、そして崩壊を招くことになる」
というのであった。
確かに、
「バブル経済」
というものの後には、
「崩壊」
というものが待っているといってもいいだろう。
確かに、
「自分たちは、バブル経済も、その崩壊も知っている」
といえるが、それは、
「歴史として知っている」
というだけで、実際に、経験した人というのは、すでに、
「定年退職」
というものをしていて、
「社会から引退した」
という人たちばかりであろう。
しかも、問題は、
「政府や、有識者が、検証をしていない」
ということである。
これは、
「世界的なパンデミック」
というものにも言えることであり、
「検証をしていないと、また同じようなことになった時、どうすればいいのか?」
ということを
「マニュアル」
として、そして、
「規範」
として活用できないということになる。
一度目はしょうがないかも知れないが、今度、パンデミックやバブル崩壊などの、
「社会的危機」
が起こった時、政府がお粗末ということであれば、へたをすれば、
「暴動」
であったり、
「クーデター」
なるものが起こったとしても、
「無理もないことだ」
ということになるだろう。
それを思えば、
「もう誰も政府に期待はしない」
といってもいいだろう。
そんな最悪の状態であるが、この街のように、
「時系列で、かつてのいいところだけを残す」
ということを貫いてきた土地では、
「回り道をしない」
ということが、
「ひょっとすると、一番いいのでは?」
と考えさせるのであった。
確かに、
「発展」
というのはないかも知れないが、
「発展だけが、未来を噤むというものではない」
社会の発展というものが、
「昔から受け継がれた伝統」
というものもたくさんある。
ということは、
「歴史が証明している」
といえるのではないだろうか?
この街の、
「経営方針」
は、まさにその通りで、最初こそ、
「他の町から乗り遅れてしまった」
ということであったが、だからといって。
「証明してくれる歴史」
というものが、どうしても嫌われるということから、
「なかなか、
「せっかくの歴史」
というものを活用できているわけではないといえるのではないだろうか?
今の時代の、
「国際問題しかり」
ということであるが、
実際に、今のソーリというのは、
「国内に眼を向ける」
ということをするわけではなく、
「自分の保身のため」
ということなのか、
「自分の利益」
あるいは、
「名誉欲」
というものに駆られるということで、正直、
「国内を見ないソーリ」
ということで、諸外国から、このソーリがどのように映っているというのだろうか?
「いくらでも利用できる」
とばかりに、
「歴代ソーリ」
の中でも、
「最低ランクの国家元首」
と思われているに違いない。
実際に、
「ソーリと国民は、まったく違うものを見ている」
といっている人もいる。
これは、
「見えている方向が違う」
ということでもあるが、
「同じ方向を見ていても、どちらかが、湾曲して見えているのではないか?」
ということで、
「最終的な目的地は同じなのだが、見える方向が違う」
ということで、見えるものが違っている。
もっといえば、その分、
「距離も違っている」
といってもいいだろう。
「湾曲しているということであれば、その分遠回りになる」
ということになるわけで、だから、
「遠くに感じられるのではないか?」
ということである。
これは、
「距離を感覚」
というもので図ろうとすると難しいのだが、それを、
「時間」
という感覚で考えるとすれば、
「もっと分かりやすいのではないか?」
と感じられる。
というのは、
「それが、この街の感覚」
ということであり、
「他のところは、開発ということで、改革を考えてしまったことで、一度先に進んだが、それは、時系列的に、横にずれる」
ということであった。
しかし、
「この街においては、開発というものがなく、じっくりと、まっすぐに回り道をせずに進んでくるので、まわりを確認することができる」
という意味で、
「検証」
というものが必要ないのである。
だから、
「まわりがどうであれば、自分たちの考えていることが、間違っていない」
ということになるわけで、それを思えば、
「時系列にゆがみはなったくない」
といってもいいのであった。
ということを考えると、
「少しでも時系列にゆがみがある」
つまりは、
「湾曲しているのであれば、そこに、時間の感覚が狂ってくる要素は十分にある」
ということになる。
その湾曲が、
「感覚の狂い」
を作り上げるのであるが、その、
「感覚の狂い」
というものを、最終的に至っても、
「間違っているとは思えない」
と感じさせるところが、
「時間に対しての、必要悪」
と考えられるのであった。
時間の感覚をゆがませるという意味では、
「悪だ」