完全犯罪の定義
これがどれほど大変なことか?
ということである、
というのは、
「死んだことになっているのだから、当然、死亡届けが出されているので、契約などできるわけもなく、住む家であったり、仕事はもちろん、病気になったら、健康保健も利かない」
ということで、
「物理的に生きていけない」
ということになる。
よほど、何か大きなバックがついていたりして、
「仕事をしないでも暮らしていけて、病気になった時は、保健がなくても、治療が受けられるなどということがなければ、それこそ、生きていけない」
わけである。
しかし、実質的にそんなことがありえるわけではない。
もし、犯行のバックに組織がついているとすれば、
「実行犯を始末すればいい」
というだけのことである。
そもそも、そんな単純なことでいいのであれば、何も、
「死体損壊トリック」
などというものを使う必要はないということだ。
こちらも、交換殺人と同じで、
「まったくもってデメリットしかない」
ということになる。
「それだけ、リスクが大きい」
ということだからだ。
「完全犯罪というものにしたい」
というだけの理由で、しかも、
「小説の中で使う」
というのであれば、
「交換殺人」
も、
「顔のない死体のトリック」
というのもあり得るだろう。
ただ、
「復讐」
ということでの、恨みを込めた、
「バラバラ殺人」
ということであれば、理由は分かるが、
「捕まりたくない」
などという理由としては、リアルには考えられないということになるだろう。
もっとも、
「殺人が目的ではあるが、自分が捕まりたくない」
という思いがあるわけではなく、
「どうせなら、華々しい犯罪を成し遂げることで満足だ」
と考えているとすれば、
「最後には、自殺をすることで、犯罪を完結させる」
と思っているとすれば、
「犯罪の美徳化」
というものを考えるかも知れない。
「一種の復讐劇というものを、耽美的に終結させる」
ということから、ある意味。
「自己満足の犯罪だ」
といえるのではないだろうか?
それを考えた時、
「どこかで不可能といえるだろうか?」
ということになるだろう。
ただ、どちらにしても、この犯行は、
「犯罪を実行できたとしても、そこから先、完全犯罪として作り上げるためには、犯人側のリスクとデメリットの大きさが、ハンパないといってもいい」
ということであろう。
あくまでも、
「顔のない死体のトリック」
というものと、
「交換殺人」
というものは、
「リスクが大きすぎる」
ということになるのだろう。
犯行計画
「俺は、この殺人計画に、一生をかけたのだ」
というような動機を持っている探偵小説を読んだことがあった。
その小説は、
「探偵小説」
などと言われていた時代だったので、時代としては、
「戦前くらいの作品だった」
といってもいいだろう。
今の時代から考えれば、時代的にもまったく違う時代である。
なんといっても、時代とすれば、
「大日本帝国」
の時代。世界では、
「植民地時代」
と言われている時代だった。
そんな時代において、
「一生を復讐に掛ける人もいたんだ」
と言われても、不思議には思わない。
それだけ、
「時代が違う」
と感じるからだろう。
時代は、どうしても、
「軍があり、戦争などとは切っても切り離せない時代だった」
といってもいい、
今の日本は、
「平和憲法」
というものに守られて、
「戦争というものを、80年近くもしていない」
という時代である。
ということは、
「実際に戦争に行った経験がある」
というと、少なくとも年齢が、
「100歳近く」
ということになるだろう。
それを考えると、
「その当時の話をしてくれる:
という人はほとんど残っていないといってもいい。
しかも、
「あの時代のことは、なるべく話をしたくない」
という人が結構いるという。
というのは、
「あの時代を思い出したくない」
ということからなのか、
それとも、
「戦争を経験した人が、今の時代の人を見て。どうせ話をしても分かるわけないに違いない」
と思っているからではないだろうか。
「話をしても仕方がない」
と思うと、
「戦争のことは語りたくない」
と思っても無理もない。
ただ、昭和の頃までは、
「そんなことはなかった」
という。
戦争のことを話す人はたくさんいて、逆に、
「戦争のことを知りたくない」
というような子供の方が多かったというではないか、
しかも、学校の教育として、
「戦争の話を聞かせる」
という授業もあったりした。
特に、
「原爆の日」
であったり、
「終戦記念日」
などにはそうであっただろう。
しかし、ちなみに、
「8月15日が、終戦記念日」
と言われているが、これには、いわくがある。
そもそも、
「終戦記念日」
という言い方がおかしな気がする。
「あくまでも、敗戦であり、終戦ということになれば、休戦というイメージが付きまとう」
ということになるだろう。
しかも、
「記念日」
という言い回しもおかしな気がする。
「これでは、本当に、敗戦したということを覆い隠すためも、欺瞞だ」
と言われても仕方がないだろう。
さらに、この日にちもおかしなものだ。
これは、あくまでも、
「天皇が、無条件降伏というものを受け入れて、降伏するというものを決めた日だ」
というだけのことで、本来であれば、
「降伏文章に調印した日」
というべきである。
いろいろな意味で、
「終戦」
と言われるものには、
「おかしなところが多い」
といってもいいだろう。
そもそも、その時の、
「おかしな感覚」
というのが、今の
「戦争認識」
であったり、
「平和国家」
というものを、誤認させるところではないだろうか?
戦争経験を語りたくないという人の気持ちもこのあたりにあるのかも知れない。
ただ、戦争が終わってから、十数年というのは、
「戦後復興」
ということで、大変な時代であったが、それを超えて、
「もはや戦後ではない」
と言われる時代になってくると、今度は、
「高度成長時代」
というものがやってくる。
これは、
「日本の復興努力にもよるが、まわりの体制が影響していることから、日本も、先進国の仲間入りができた」
といってもいいだろう。
それが、
「昭和」
という時代であり、
「戦後からの復興」
というものからの、時系列であった。
しかし、それが、平成に変わってくると、
「高度成長」
とおうものにお陰りが生まれてくる。
それが、
「バブルの崩壊」
というものだった。
その時代が、一種の、
「分岐点の一つ」
ということだっただろう。
確かに。昭和の高度成長時代という間にも、
「不況」
と呼ばれる時代があった。
それは、
「高度成長」
という時代の間に挟まれた時代で、一種の、
「反動」
といってもいいだろう。
しかし、その反動が終わると、
「好景気」
がやってくるという、