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地図から抹消された村

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 ということになるだろう。
「大名が逆らえないような強固な幕府」
 それを考えるだろう。
 何といっても、
「戦国時代の扉を開いた足利幕府」
 というものが、どれほど弱体だったのかということを考えれば、自ずとその結論になるというものだ。
 特に、足利幕府は、その貧弱なのは、
「将軍の性格」
 というものにもあっただろう。
 3代将軍以降は、ひどいものだった。
「3代将軍義満の息子は、父親にコンプレックスを持っていて、父親とは正反対の政治を行った」
 ということで、そこに、
「正悪の判断というものはなかった」
 といってもいいだろう。
「8代将軍義政」
 の時代に至っては、
「政治に関してはまったく興味がない」
 といってもいいくらいで、特に、当時の、
「管領」
 であったり、
「守護大名」
 などという連中が、時代を動かしていたりした。
 中には、そんな連中が、自分たちで、勢力争いをしていたのだから、将軍としても、
「自分はお飾りだ」
 と思うのも無理もないことだろう。
 そういう意味で、
「貴族化してしまった」
 ということで、文化人になってしまったのだ。
 そんな中、
「将軍後継問題」
 と、
「管領の勢力争い」
 というのが絡むことで、京都を舞台に、歴史上でも最大の内乱と言われた、
「応仁の乱」
 というものが起こったことが原因で、
「戦国時代の扉を開いてしまった」
 ということになるのである。
 それが、歴史上における、
「大きな分岐点になった」
 ということであろう。
 あんなにつまらない歴史の授業の中で、少なからずの人が興味を持つかも知れないと言われる、
「唯一の時代」
 である戦国時代というものが、すでに迫っているということだったのだ。
 もちろん、戦国時代に注目する人は、
「戦国時代だけしか興味を持たない」
 ということになるだろう。
 しかし、
「物事には、結果があるのはもちろんのこと、その原因から調べることで、どんどん楽しくなっていく」
 ということだってある。
 それが歴史の醍醐味ということであり、
「時系列を噤む」
 ということになるだろう。
 そうやって、時代をさかのぼっていくと、頭の中で、
「一本の線」
 というものにつながるはずである。
 それがつながってくると、見えてくるのは、
「人間模様」
 ということであろう。
 実際に、昔、テレビのドキュメント番組の続き物で、
「時代の中の一つの事件に焦点を当てる」
 というものがあった。
 その番組の趣旨は、
「起こった事件には、必ず、それを決意した場面やタイミングというものがあるはずだ」
 ということで、それを、史実として残っているものから推理して、
「その瞬間に、人は何を考え、どのように行動したか?」
 ということを検証するという番組だった。
 つまりは、その結果から、原因を突き止めることになるのだが、番組の構成としては、
「時系列に放送し、結果がここだということを示して、その瞬間に至るまでを視聴者に問題提起することで、番組が独自に考えたその原因を示す」
 というものであった。
 もちろん、事実は分からない。
 誰もその時代にいたわけでないからだ。
 しかし、一つの事件が起こり、それが結果として現れたものが、後々の時代に、少なからずの影響を与えたことで、今があるのだと考えると、
「結果は史実に他ならない」
 ということになるだろう。
 そこから、
「原因というものを推理する」
 というのは、実に面白いことだというのを、その番組は定義しているということになり、それこそが、
「歴史の醍醐味だ」
 ということが言いたいのであろう。
 つまり、
「歴史というのは、どの時代であっても、人間が考えて行動したことの結果の積み重ねでしかない」
 ということになるのだ。
 だから、今の時代に、まさに起こっていることでも、
「過去の結果が及ぼしたこと」
 ということであり、逆にいえば、
「その解決法というのは、歴史の中に含まれている」
 と言えるのではないだろうか?
「群雄割拠の戦国時代」
 さらには、
「血で血を洗う歴史背景」
 というものは、事実である。
 だとすれば、その中に、今の時代の諸問題を解決するすべも隠されているのではないか?
 と考えれば、
「検証が必要だ」
 ということで、歴史家がずっとやってきたことだろう。
 それなのに、
「ほとんどの子供が、歴史は嫌いだ」
 というのは、どういうことなのだろう。
 それこそ、
「教育というものに、大いなる欠陥がある」
 ということなのか、もっといえば、
「過去の支配階級の勝手な理屈」
 というものによって、残っている歴史を紐解く資料に、考え方の偏りがあるということになるだろう。
 そうなると、
「何を信じていいのか分からない」
 ということで、あきらめてしまう人もいるだろうが、学者というのは、そうではない。
「解き明かすことが困難であればあるほど、その任務の重さや、さらには、楽しさというものを感じることで、自分の生きがいというものをささげるだけのことはあるだろう」
 というのが、歴史家の先生というものの信条ということになるのではないだろうか?
 そういう意味で、
「明治政府によって、地図上も、歴史上も葬り去られた村」
 というものこそ、
「歴史研究の恰好のテーマである」
 と言えるのではないだろうか?
 長い間、その村の存在というのは、明治政府の思惑通り、知られることはなかった。
 しかし、
「日本が大東亜戦争に敗戦し、そのために、民主国家に生まれかわる」
 ということで、それまでとは、まったく違う社会になった。
 ただ、それは、今までにも何度もあったということであるが、何が違うのかというと、
「今度は、外国からの一方的なもの」
 ということで、あくまでも、
「統治する」
 ということを目的に行われた、
「勝者の理論」
 による改革であった。
 それまでは、
「内乱というものや、クーデターによって、変わる」
 というものだったのとは、まったく違っているわけだ。
 そこに、日本人が初めて味わった屈辱やコンプレックスというものは、思ったよりも、深く、日本人の心の中に根付いたことであろう。
 それが、
「人間の歴史」
 特に、
「日本人の歴史」
 ということになるだろう。
 大日本帝国も、諸外国に、不平等条約を改正するために、見習うことがあったというが、
「大日本帝国が崩壊した」
 という時点で、今度は、占領下において、日本人が、その屈辱とコンプレックスを跳ね返すということから、
「結局は、同じような考えになっている」
 ということであろう。
 つまり、人間というのは、その時代背景がどのようなものであっても、
「歴史は繰り返す」
 ということになるのだ。
 もっといえば、
「それだけ、人間の根本に変わりはない」
 ということであろう。
 それが、時代背景に関係なくということであれば、
「歴史の鳴かれに打ち勝つことができるとすれば、それは、人間でしかない」
 ということになるだろう。
 しかし、逆もいえるわけで、
作品名:地図から抹消された村 作家名:森本晃次