地図から抹消された村
「中学、高校のそれぞれ3年間では、日本の歴史だけでも、有史からの歴史をまともにするならば、3年ではとてもできるものではない」
ということだ。
それこそ、一年の一学期で、すでに、封建制度の武士の時代に入っているということでなければ、中学で現代まで行きつかないだろうということだ。
特に、社会科というのは、歴史だけではなく、地理などもあり、さらには、政治経済などの、公民という授業もあるということだ。
しかも、歴史にも地理にも、それぞれに、日本と世界があるということで、日本史だけで、3年間も使えないということになる。教える側からすれば、
「物理的に不可能だ」
ということになるのだろう。
だから、検証どころか、たとえば、
「天下分け目の関ケ原」
と言われることであっても、
「豊臣秀吉がなくなったことで、天下が乱れ、天下取りの野望を持った徳川家康と、豊臣秀吉にかわいがられた石田三成が、関ケ原で、西軍、東軍に別れて戦い、最後には家康が勝ち、江戸に幕府が開かれた」
というこれだけのことで終わってしまうのであった。
実際の検証など、授業ですることもない。ほとんどの先生は、教科書を読んで、それで終わりということも多いに違いない。
そんな先生に教わった生徒が、
「歴史って面白い」
と感じることはないだろう。
もし、歴史を好きになることがあるとすれば、学校を卒業し、社会人になったりして、本屋で、
「歴史雑誌」
であったり、
「歴史小説」
などというものに触れた時ではないだろうか?
ちなみに、小説の中には、
「歴史小説と時代小説」
という二種類の者があるという。
「歴史小説というものは、あくまでも、ノンフィクションであり、時代考証もきっちりしていて、史実と呼ばれるものに則った形の小説でなければいけない」
ということである。
しかし、
「時代小説というものは、基本はフィクションである」
ということであるが、
「史実に則った話でもいいのだが、そこから想像力を膨らませ、もしもの世界を実現する世界線であってもいい」
というものである。
たとえば、
「関ケ原の戦いにおいて、登場人物はすべて、実在したよ呼ばれる武将であっても、作家の裁量の中で、結果として、石田三成が勝ち、徳川家康が破れる」
ということを描いたとすれば、それが、時代小説ということになるというものである。
もちろん、そんなことをすれば、それ以降の歴史が変わってしまうことになるが、あくまでも、ピンポイントで描いたものということになるので、発想としては、
「もう一つの世界線」
ということで、それこそ、
「パラレルワールド」
という、SF調の小説ということになるだろう。
そういう意味で、最近の時代小説の中には、
「SF調の小説」
であったり、
「転生もの」
といわれる、いわゆる、
「歴史ファンタジー小説」
と呼ばれるものが流行っている。
しかも、歴史を背景とした、
「アニメやゲーム」
という、現代人が夢中になるものとコラボということになれば、それこそ、
「歴史というものに、そこから入る」
という人が増えてくる。
特に、それまでは、
「まず好きな人はいないだろう」
と言われた女性までは歴史を好きになり、
「歴女」
として、話題になった時期があった。
従来の時代からすれば、
「歴史を好きになる女性はまずいない」
ということであった。
もちろん、実際にはいたのだろうが、もし、歴史が好きだなどということをまわりの人に話でもしたら、
「あの子は変わっている」
ということで、相手にされなかったり、ひどい時には、虐めの対象になったりするということから、
「歴史が好きな気持ちをまわりにいわず、自分の中で封印する」
ということにしかならないということであろう。
せっかくの可能性の目を摘み取るというのは、その人の決意だけに限らず、もっと大きなこととして、
「周りの目」
というものが大いに影響しているといってもいいだろう。
しかし、本当は、
「そんなまわりの目を気にすることなく、のびのびとできる人間が、もっと増えればいいだけのことである」
しかし、それを許さない時代背景があったというのも事実であり、特に日本人は、
「集団意識」
というものが、異様に強いといってもいいだろう。
それが、人間の成長を止めているとすれば、それこそが罪ではないかと言えるだろう。
もっとも、歴史というのは、
「その時代時代で、ゆがめられている」
というのも、事実としてあるだろう。
何といっても、長年の歴史の中で、支配階級というものが、不変だったということはないのである。
確かに、
「万世一系の天皇」
というものが、ずっと君臨してきたというのが事実ではあるが、実際に、権力を握ったというのは、天皇ではない。
あくまでも、天皇というのは、そのような歴史の支配者たちによって、祀り上げられているだけの存在だった。
中には、それらの時代の支配者たちの勢力が弱った時、
「時期は熟した」
ということで、
「天皇中心の社会に戻そう」
と考えた人もいた。
「承久の変」
を起こした、
「後鳥羽上皇」
であったり、
「鎌倉幕府を滅亡に導き、建武の新政を行おうとした」
という
「後醍醐天皇」
などもそうであろう。
しかし、結果は、
「武士の結束を確かなものにしてしまった」
ということで、そんな武士にかなわなかったのが、後鳥羽上皇であり、
「鎌倉幕府の滅亡」
ということには成功したが、その時、
「「古い律令制度の時代に戻そうとした」
ということで、武士の居場所がなくなる。
それによって、幕府を滅亡させた立役者で、命を張った武士たちにその居場所を奪うというような理不尽な状況では、とても、政権を維持はできないだろうということから、すぐに、都を追われるということになった。
いくら、夢というものがあったとしても、歴史認識を間違ってしまうと、いくら天皇とはいえ、国民を敵にまわせば、都を追われるということになるのも無理もないということになるだろう。
そんな歴史がずっと繰り返されてきた。
その大きな転換期になったのが、
「戦国時代」
と呼ばれるものだ。
中央集権であるはずの幕府が弱体化し、政治を私物化するようになってしまえば、もう、支配階級としての役目は、有名無実ということになるだろう。
それが結果として、
「配下のものが、上の者にとって代わる」
という、いわゆる、
「下校上の社会」
ということになり、
「誰もが、天下を狙える」
ということになると、それが、結局、
「群雄割拠の戦国時代」
というものを生むということになる。
そうなると、
「歴史は塗り替えられる」
ということで、それまでの常識はまったく通用しなくなる。
その土地の支配階級が固まると、まわりの国に侵略し、誰もが天下を狙うという、
「弱肉強食」
というものを形にした時代となったのだ。
もちろん、天下を狙う人の最終目的は、
「戦のない時代を作る」
ということであるが、そのためには、
「名実ともに、最強の政府を作り上げる」
作品名:地図から抹消された村 作家名:森本晃次