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地図から抹消された村

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 などというもので、実際には、田舎は、昭和の終わり頃までは存在していたということである。
 ただ、村というのも、存在はしているが、今ではほとんど見なくなった。
 中には、
「地図上から消えた」
 という村もある。
 ただ、そんな村というのは、
「明治時代に多かった」
 という。
 明治時代には、まだまだ幕府勢力を復興させようとして、田舎の村で再起を喫するという人がいたという話を聞いた。
 実際に、そんな勢力が表に出たのが、
「佐賀の乱」
「萩の乱」
 などで、極めつけが、
「西南戦争」
 というものであった。
 しかし、実際には、田舎の村を占拠して、村を一つの国歌のような形で、政府に見つからないようにしていたが、政府も密使を送り付けるなどして、
「草の根作戦」
 というものを展開し、徹底的に、そんな村の破壊を行ったということである。
「村人を一人も生かしておくな」
 などというのは当たり前で、それこそ、
「集団虐殺」
 というのも当たり前ということであった。
「女子供も容赦なし」
 ということでの、皆殺しである。
 当然、
「この村が存在した」
 などという証拠は残すわけもなく、完全に、
「地図から抹消された村」
 ということだったのだ。
 それが、明治政府の正体ということであり、
「時代が移り変わる時には、えてしてこういうことが起こりがちになる」
 ということである。
 そんな地図から抹消された村の中に、
「日下部村」
 というところがある。
 その村は、
「昔から、いつの時代でも、血で血を洗う歴史があった」
 ということである。
 その村が歴史から消えてしまったのが正確にいつなのかということは、定かではない。
 実際に、
「そんな村が存在したという文献は存在するというのだが、それも、歴史の一ページといってもよく、時系列でその存在を示すということはなかった」
 ということである。
 ただ、血で血を洗う歴史というのは、口伝のようなもので、伝わっている。その話が、おとぎ話になったということもあったようだが、
「あまりにも話がむごいので、明治政府が抹消した」
 というものである。
 あくまでも、学校の教科書を基準に考えていたので、あまりにもむごたらしいものは、排除するというのも当たり前だ。
 そもそも、学校教育に力を入れるというのも、明治政府とすれば、
「肝入りの政策」
 といってもいいだろう。
 そもそも、徳川幕府の政策は、
「鎖国政策だった」
 ということだ。
 実際に、鎖国することで、諸外国の影響を受けないということで、なんといっても、時代は大航海時代の頃に、ヨーロッパの国は、こぞってアジアたアフリカの国を植民地にしたということであった。
 地理的問題からなのか、我が国は、植民地になることを免れた。ただ、開国を迫られ、最終的には、
「アメリカによる砲艦外交」
 という、ほぼ脅迫に近い形での開国ということになった。
 幕末の動乱の始まりだった。
「尊皇攘夷」
 ということで、
「外国打ち払い」
 という政策が主流だったが、そのせいで、薩摩と長州は、
「まともに、海外の脅威を受けた」
 ということで、
「今の日本の国力で、海外に打ち勝つことは不可能だ」
 と悟ったのだ。
 そこで、幕府の力を借りず、朝廷の権威で、政治を行う体制にしようと考えたのが、
「尊皇倒幕運動」
 ということであった。
 しかし、海外との間では、
「不平等条約」
 というものを結ばされるということになった。
 そのため、日本は
「海外と平等に渡り合う」
 ということのために、積極的に海外に学ぶという方法を取ったのだ。
「鹿鳴館での海外の貴賓をまねいての晩餐会など」
 というのは、その代表であろう。
 教育はその一環として大切なものだった。国家の体制として、
「殖産興業」
「富国強兵」
 という政策の中に、
「教育の普及」
 というのも入っているのだ。
「国会や議会の制定」
 さらには、
「憲法を制定して、法治国家を歩む」
 というのが、
「海外に追いつけ追い越せ」
 ということになるのだ。
 だから、教科書選定というのも大切なことである。
 そんな中、
「この村に残っているようなおっかない話は、それこそ、日本の恥を海外にさらすものだ」
 という発想から、この村自体を葬り去るという、
「危ない発想」
 というものを持つことで、結果的に、
「地図からも、この国の歴史からも、抹消される」
 ということになったのだ。
 ただ、人の口に戸は立てられないということで、口伝が、書物となって、祠に納められて、今も安置されているということであった。
 その祠というのは、隣の市の中にある。
 高速道路が上を通っているような国道沿いがあるのだが、その横には、少し大きな川が流れている。
 もちろん、大都市を流れる巨大な川というほどのものではないが、その川の隣を走る国道の一角に、その祠があるのだった。
 実際に、
「こんなところに、こんな祠があるなんて」
 と、地元の人も、あまり気にしているわけではない。
 石碑が立っているが、それほど大きなものではないし、削れてしまっているので、実際には、なんと書いてあるのか分からない。
 もし、新しかったとしても、その石碑に書かれた文字は、達筆すぎて、なんと書いてあるのか分からないということになるだろう。
 ただ、
「これではさすがに分からないだろう」
 ということで、祠の横に、鉄板で、説明がしてある、
「無残塚」
 と書いてあった。
 他の土地に、
「濡れ衣塚」
 というものがあるのは知っているが、そこも、奇しくもここと同じように、国道の上を拘束が走っていて、さらに、その横を川が流れているということで、それこそ、シチュエーションとしては、同じだということになるだろう。
 そして、もう一つ一緒なのは、
「どちらも、戦前に、他の場所から移設されたものだ」
 ということである。
「空襲というものを恐れての移設」
 ということであったが、当時には、文化遺産であったり、このような、
「いわくありげなもの」
 というのは、空襲を恐れて、移動させるというのが、当時の習いだったようだ。
「無残塚」
 というものも、
「濡れ衣塚」
 というものも、それぞれに、説明文には悲惨なことが書いてあった。
 それこそ、
「恨みのためには、何が起こるか分からない」
 という、怨念渦巻くというものであった。
 幸いにも、場所を移しておいたことで、
「大空襲から免れた」
 ということであった。
 濡れ衣塚の方は、
「空襲の範囲からはずれるところに移された」
 ということで、
「まるで疎開のようなものだ」
 ということだったが、
「無残塚」
 と呼ばれる方は、
「完全に、空襲の範囲内だった」
 ということで、逃げられない状態にあった。
 しかし、まわりは、燃え尽きたところが多かったが、無残塚は奇跡的といってもいいくらいに助かったのだ。
 それこそ、土地の人間からは、
「奇跡の塚」
 ということで、それまでは、恐れられていたものが、
「奇跡の象徴」
 ということになったのだ。
 それを考えると、
「今の時代に、よくここまで持ちこたえた」
作品名:地図から抹消された村 作家名:森本晃次