地図から抹消された村
だから、
「会社を首になった」
ということであれば、その人にとっては、
「屈辱に耐えられない」
といってもいいだろう。
しかし、それも、自業自得というもので、実際には、会社を恨むのは逆恨みといってもよかっただろう。
だが、今では誰がどうなるか分からないということで、屈辱感は薄れたかも知れないが、家では、それまでの父親としての権威は崩れ去り、家族からは、尊敬の念はなくなってしまったことだろう。
それに対してのプライドは、ズタズタに傷つけれら、さらにm
「奥さんも働きに出る」
ということであったり、
「子供も、学校で虐められる」
などということで、家庭崩壊というものが、進行していったといってもいいだろう。
そんな時代において、
「学校では、子供が不登校になり、家で引きこもる」
ということになる。
奥さんは、パートに出るようになり、それまでの専業主婦として、縛られてきたり、会社にいる頃も、
「女性社員というのは、結婚すれば会社を辞める」
ということで、虐げられてきたのに、今では、
「パートということでも、どんどん、その存在が目立ってくる」
というものである。
そうなると、パート先にもよるが、直属の上司と、
「男女の仲になる」
ということも決して珍しくもないだろう。
いわゆる、
「不倫」
というものである。
特に、
「自分の旦那は、会社を首になった」
ということで、少なくとも、自分の上司ということで、仕事を教えてくれているその男性を頼りに思うというのも、無理もないことだろう。
家に帰っても、
「首になり、うだつの上がらない旦那が、へたをすれば、酒をかっ食らっているというのを見るのは、耐えがたいことだ」
ということだ。
そうなると、本当に家庭が崩壊する。
両親の仲が完全に冷え切ってしまえば、子供は、家に自分の居場所がなくなるだろう。
といっても、どこに行くところもなく、自分の部屋に入って、出てこない。
それこそが、
「引きこもり」
ということだ。
それが、都会の、
「バブル崩壊における一般家庭のなれの果て」
といってもいいだろう。
そんなバブルの時代には、田舎の方にも、そのあたりの被害は若干あったということであるが、この村にはそんなことは関係なかった。
というのは、
「いざとなれば、自給子息」
ということができるというもので、実際に農家で作った食糧や、畜産で得た肉類などは、
「街で売っても、まだまだ余裕がある」
というくらいで、それこそ、
「都会で食料がなければ、食べ物のない人を助けることができる」
というくらいであった。
しかし、彼らには、そんな気持ちはさらさらなかった。これまでのことには、屈辱こそないが、
「下手に都会の口車に乗ると、嫌な思いをする」
ということも分かっているというものだ。
他の村では、
「都会に対して、憧れのようなものと、閉鎖的なものがあることからの、妬みのようなものもある」
ということで、都会の人から見れば、
「田舎の人をどう扱っていいのか分からない」
ということであった。
都会の空気に田舎の人間が染まっていないということは、都会に対してのあこがれというものが、次第に薄れてきて、やっかみや妬みのようなものが、どんどん出てくるという時代があったのだ。
しかし、そんな田舎の人の目を都会の人は、まだまだ差別的な目で見ていることだろう。
「都会の良さは、田舎者には分からない」
と言わんばかりなのだが、田舎の人からすれば、
「どうせ、都会では、自分を目立たせようとしても、埋もれるだけなんだ」
ということも分かっている人が結構いた。
ただ、そんな田舎の人は、全国の田舎の人でも、数少ないといってもいいだろう。
田舎に住んでいると、都会に憧れて、高校を卒業すると、ほとんどの人が都会に出ていくと言われた。
しかし、そのうち、数年もしないうちに、ほとんど皆都会の生活に疲れて戻ってくるということになるだろう。
そんな田舎の人間が都会に出ることで、
「実は、都会に活性化を与えている」
と考える人もいた。
決して、
「田舎者などといって、バカにできる相手ではないんだ」
ということであった。
そもそも、帝都東京と呼ばれるところは、
「しょせんが、田舎から出てきた人の集まりではないか」
ということである。
それこそ、
「江戸っ子」
と呼ばれる人が、いわゆる、
「東京の原住民」
ということであろう。
田舎から出てきた連中が増えたことで、都会としての形成を保つことができているということを、誰が実感しているということであろうか。
昔の、
「集団就職」
などというのが、そのいい例で、
「その世代が、高度成長を支えた」
といってもいいだろう。
実際に、高度成長が終わるきっかけになったというのは、
「都会に流出する田舎の若者がいなくなった」
ということで、
「田舎では、過疎が進み、都会では、高度成長が終わり不況になることで、人口増加が、今度は、深刻な問題」
ということになるのだ。
最初はよかったのかも知れないが、
「結果は最悪の形を迎えた」
といってもいいかも知れない。
しかし、その時の現状で、
「これが本当の結果といってもいいのだろうか?」
ということである。
「時代は繰り返す」
というが、実際に、どこが本当の結果だというのか、それこそ、まるで、
「どこを切っても金太郎」
というような、
「金太郎飴」
のようではないか。
そんなことを考えていると、
「世の中というのは、堂々巡り」
ということで、
「不況と好景気というのも、交互に襲ってくる」
というもので、まるで、精神疾患にある、
「躁鬱症のようではないか」
というものである。
今の時代は、
「躁鬱症とは言わず、双極性障害という」
ということである。
実際には、似たもののようであるが、
「双極性障害と躁鬱症というのは、まったく違う」
という医者もいる。
「双極性障害というのは、脳の病気で、自然と治るものではないので、医者が処方する薬を飲まなければ、さらに悪くなる」
と言われている。
実際に、最近の精神疾患と呼ばれるものは、多種多様であり、
「本当に、医者でも、診断が難しい」
と言われている。
時代が進むにつれて、
「精神疾患というものに対しての見方も変わってきた」
ということである。
昔は、
「差別」
ということで、道徳の授業があった。
今でもそれはあるのだろうが、
「精神疾患というのは、いつ誰が起こっても不思議ではない」
ということだった。
昔であれば、
「遺伝」
というものが、精神疾患の原因ということで、
「母親が子供を宿している時に、たばこや薬などをしていた」
ということからも、子供に現れるということもあった。
それこそ、
「親の因果が子に報い」
ということであろう。
そんな時代が今から半世紀前ほどのことである。
田舎というのも、その当時はまだまだあり、
「村というのも結構あった」
ということである。
今では、
「市町村合併」
作品名:地図から抹消された村 作家名:森本晃次