地図から抹消された村
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、説定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和7年10月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。
プロローグ
歴史上、このような村は今までに存在下だろうか?
そんなことを考えている人もいるかも知れないが、結構ミステリーや、オカルト小説などでは、こんな村は多く想像されている。実際に、小説に書かれるくらいだから、過去に存在していたというのも無理もない発想なのかも知れない。小説のテーマとして魅力のある村なのか、そのあたりが面白いところである。
今の時代には、なかなか村というものは存在しないという。実際に明治時代になって、地図というものが作られるようになってから、
「地図から消えてしまった村」
というのも結構あったりして、歴史というものを思わせるというものである。
よくマンガなどでは、オカルトや都市伝説のような村が出てくる。そこには、妖怪が住んでいたり、老婆が住んでいて、うっかり迷い込んで一夜の宿を求めたりすると、台所から、山姥が、耳の当たりまで割けて見える口から出た舌で、包丁をベロリと舐めると、にんまりとした気持ち悪い表情をさせて、
「見たなぁ」
とばかりに、鬼の形相に変わるというような話をおとぎ話や、昔から口伝されたその村に伝わる話などということで、村の子供は聞かされていたに違いない。
それを聞かせている老婆自体が、まるで、その物語に出てくる山姥の形相をしているというのは、実に興味深い話ではないだろうか?
実際に、そんな村が存在したのかどうかはわからないが、
「存在した」
と考える方が、理論的にはありえることだ。
「火のない所に煙は立たぬ」
と言われるが、まさにその通りで、
「伝説が起こるだけの村」
というのは、どこかの街の資料館であったり、図書館の、郷土史のコーナーにあったりするのではないだろうか?
実際に、この村の近くの市には、図書館があり、そこには、郷土史コーナーというものがあり、近くの大学だけではなく、他県からの考古学の先生や研究チームが、文献を探しに来ているという噂も聞いたことがあった。
隣には、少々大きな市がある。日本中に少なくなった希少価値と言われる村であるが、こんなに隣に、県庁所在地とまではいかないが、大きい都市があるというのも珍しいといえるだろう。
そこは、そもそも、、
「市町村合併」
というもので大きくなったところだ。
元々、
「この村をどうしようか?」
という話が出ていたのだが、すぐにその話は断ち切れになった。
そもそも、市町村合併に名乗りを上げたところは、どこもが、
「あの村をいれることには反対だ」
ということであった。
経済の面でもいえることだが、それ以上に、
「新しい市を作ったとしても、あんな村が合併した」
ということであれば、新しい市の印象が悪いというわけだ。
村の方としても、
「そもそも、村というのは閉鎖的なところ」
ということで、この村も類に漏れず、
「こんなところと思われながら、都会と一緒になるなどは、いやだ」
ということであった。
村人とすれば、これまで他の街に頼ることなくやってきた」
というプライドがあった。
村人というと、
「都会に憧れていて、都会の人に頭が上がらない」
という雰囲気を持っているかも知れないが、村人には、彼らなりのプライドというものがあるのだ。
そもそも、戦後すぐというと、
「都会では、食糧が不足し、田舎にプライドを捨てて、買い出しに来た」
という時代を知っている。
その時は、自分たちがやりたい放題にできたという意味で、
「一番いい時代だった」
と思っていることであろう。
しかし、都心部が復興してくると、それまでの裁定の時代の恩というものをすっかり忘れて、
「田舎者」
ということで、差別の目で見ていたに違いない。
それを考えると、
「都会というものに対しては、信用してはいけない」
と思っていた。
さらに、
「都会で混乱が起これば、また田舎を頼ってくるだろう」
ということで、
「その時どうすればいいのか?」
ということが考えられるということであるが、その村々で考えかたが違っていたということであった。
村によっては、
「都会の人も大変だろうから、また恩を売れば、今度こそは、こちらに逆らえないようになるだろう」
と考えているところもあれば、
「いやいや、都会というものを信じたりしてはいけない」
ということで、
「俺たち田舎者は、都会には絶対に折れない」
ということから、
「今度こそ、都会の人間に目にもの見せてやる」
ということで、
「復讐心に燃えている」
という人もいるだろう。
田舎の人は、意外と歴史を知っていたりする。都会の人間は、
「自分たちだけが教育を受けている」
かのように感じているのだろうが、実際にそんなことはない。
田舎であっても、義務教育というのは当然あるわけで、都会の学校に、はるばる通っているはずだ。
どうしても、田舎の子供というと、都会の子供は、
「差別的に見る」
というのが当たり前と思っている。
「受験戦争」
というものを小さいことからさせられて、させられることに屈辱感を感じているだけに、
「田舎者には、この辛さは分からないだろう」
とばかりに、その差別感情というものは、大きいのだ。
「大人に対しての反発」
という思いが、自分たちの差別対象である田舎者に移ってくる。
これは、大人の世界においてもいえることで、
「サラリーマンが、会社で馬車馬のように働いて、給料をもらっているのを、サラリーマンとしては、ある意味、屈辱感を持って感じているかも知れない」
昔であれば、
「家父長制度」
というものがあり、
「父親が、家では一番偉い」
と言われていた。
しかし、時代は、
「バブルの崩壊」
などというものを経て、それまでの、年功序列や終身雇用というものが崩壊したことで、
「いつ首になるか分からない」
ということであった。
実際に、
「リストラ」
などという言葉が流行り、会社を首になるということが、いつ誰の身に降りかかるということにならないとも限らない。
昔であれば、
「よほど、会社に迷惑をかけたり、仕事ができない」
などというれっきとした理由があれば、
「会社を首になる」
ということも不思議ではなかった。
プロローグ
歴史上、このような村は今までに存在下だろうか?
そんなことを考えている人もいるかも知れないが、結構ミステリーや、オカルト小説などでは、こんな村は多く想像されている。実際に、小説に書かれるくらいだから、過去に存在していたというのも無理もない発想なのかも知れない。小説のテーマとして魅力のある村なのか、そのあたりが面白いところである。
今の時代には、なかなか村というものは存在しないという。実際に明治時代になって、地図というものが作られるようになってから、
「地図から消えてしまった村」
というのも結構あったりして、歴史というものを思わせるというものである。
よくマンガなどでは、オカルトや都市伝説のような村が出てくる。そこには、妖怪が住んでいたり、老婆が住んでいて、うっかり迷い込んで一夜の宿を求めたりすると、台所から、山姥が、耳の当たりまで割けて見える口から出た舌で、包丁をベロリと舐めると、にんまりとした気持ち悪い表情をさせて、
「見たなぁ」
とばかりに、鬼の形相に変わるというような話をおとぎ話や、昔から口伝されたその村に伝わる話などということで、村の子供は聞かされていたに違いない。
それを聞かせている老婆自体が、まるで、その物語に出てくる山姥の形相をしているというのは、実に興味深い話ではないだろうか?
実際に、そんな村が存在したのかどうかはわからないが、
「存在した」
と考える方が、理論的にはありえることだ。
「火のない所に煙は立たぬ」
と言われるが、まさにその通りで、
「伝説が起こるだけの村」
というのは、どこかの街の資料館であったり、図書館の、郷土史のコーナーにあったりするのではないだろうか?
実際に、この村の近くの市には、図書館があり、そこには、郷土史コーナーというものがあり、近くの大学だけではなく、他県からの考古学の先生や研究チームが、文献を探しに来ているという噂も聞いたことがあった。
隣には、少々大きな市がある。日本中に少なくなった希少価値と言われる村であるが、こんなに隣に、県庁所在地とまではいかないが、大きい都市があるというのも珍しいといえるだろう。
そこは、そもそも、、
「市町村合併」
というもので大きくなったところだ。
元々、
「この村をどうしようか?」
という話が出ていたのだが、すぐにその話は断ち切れになった。
そもそも、市町村合併に名乗りを上げたところは、どこもが、
「あの村をいれることには反対だ」
ということであった。
経済の面でもいえることだが、それ以上に、
「新しい市を作ったとしても、あんな村が合併した」
ということであれば、新しい市の印象が悪いというわけだ。
村の方としても、
「そもそも、村というのは閉鎖的なところ」
ということで、この村も類に漏れず、
「こんなところと思われながら、都会と一緒になるなどは、いやだ」
ということであった。
村人とすれば、これまで他の街に頼ることなくやってきた」
というプライドがあった。
村人というと、
「都会に憧れていて、都会の人に頭が上がらない」
という雰囲気を持っているかも知れないが、村人には、彼らなりのプライドというものがあるのだ。
そもそも、戦後すぐというと、
「都会では、食糧が不足し、田舎にプライドを捨てて、買い出しに来た」
という時代を知っている。
その時は、自分たちがやりたい放題にできたという意味で、
「一番いい時代だった」
と思っていることであろう。
しかし、都心部が復興してくると、それまでの裁定の時代の恩というものをすっかり忘れて、
「田舎者」
ということで、差別の目で見ていたに違いない。
それを考えると、
「都会というものに対しては、信用してはいけない」
と思っていた。
さらに、
「都会で混乱が起これば、また田舎を頼ってくるだろう」
ということで、
「その時どうすればいいのか?」
ということが考えられるということであるが、その村々で考えかたが違っていたということであった。
村によっては、
「都会の人も大変だろうから、また恩を売れば、今度こそは、こちらに逆らえないようになるだろう」
と考えているところもあれば、
「いやいや、都会というものを信じたりしてはいけない」
ということで、
「俺たち田舎者は、都会には絶対に折れない」
ということから、
「今度こそ、都会の人間に目にもの見せてやる」
ということで、
「復讐心に燃えている」
という人もいるだろう。
田舎の人は、意外と歴史を知っていたりする。都会の人間は、
「自分たちだけが教育を受けている」
かのように感じているのだろうが、実際にそんなことはない。
田舎であっても、義務教育というのは当然あるわけで、都会の学校に、はるばる通っているはずだ。
どうしても、田舎の子供というと、都会の子供は、
「差別的に見る」
というのが当たり前と思っている。
「受験戦争」
というものを小さいことからさせられて、させられることに屈辱感を感じているだけに、
「田舎者には、この辛さは分からないだろう」
とばかりに、その差別感情というものは、大きいのだ。
「大人に対しての反発」
という思いが、自分たちの差別対象である田舎者に移ってくる。
これは、大人の世界においてもいえることで、
「サラリーマンが、会社で馬車馬のように働いて、給料をもらっているのを、サラリーマンとしては、ある意味、屈辱感を持って感じているかも知れない」
昔であれば、
「家父長制度」
というものがあり、
「父親が、家では一番偉い」
と言われていた。
しかし、時代は、
「バブルの崩壊」
などというものを経て、それまでの、年功序列や終身雇用というものが崩壊したことで、
「いつ首になるか分からない」
ということであった。
実際に、
「リストラ」
などという言葉が流行り、会社を首になるということが、いつ誰の身に降りかかるということにならないとも限らない。
昔であれば、
「よほど、会社に迷惑をかけたり、仕事ができない」
などというれっきとした理由があれば、
「会社を首になる」
ということも不思議ではなかった。
作品名:地図から抹消された村 作家名:森本晃次