本当の天才
ということも、当然のことながら、分かっているということだ。
ただ、高校生の頃までは、
「極端」
なほどの、
「うぶだった」
といってもいいだろう。
「女の子とのキス」
というものですら、
「自分の中で、想像を絶するものだ」
といってもいいだろう、
「ましてや、セックスなどとんでもない」
と思っていた。
それは、
「受験というものが控えている」
ということから、
「自分の中にある全般的な欲望に打ち勝たないと、ここで人生が崩れてしまう」
というくらいに思っていたのだ。
だから、
「先のことは分からないが、とにかく、大学に入る」
ということを、まずは必死でこなすということになるのだ。
逆に言えば、
「大学にさえ入ってしまえば、あとは、どうにでもなる」
というような考えであった。
「受験のために、少々のことが犠牲にしてもいいだろう」
という考えを強く持っていたのだが、それは、
「高校時代にしかできない」
ということがあるということは、
「百も承知だ」
ということは自分で分かっていた。
だからといって、大学入試を犠牲にできるほど、自分に自信があるわけではない。
とにかく、
「大学に入ってしまえば、あとからでも、いくらでもやりたいことができる」
ということが一つと、もう一つとしては、
「大学に入ってしまうと、憂いなく、いくらでも楽しめるというものだ」
ということである。
「二年間くらいは、普通にとりかえせる」
という感覚と、
「失った二年間は、二度と戻ってこない」
という思いがジレンマとなる中で、それでも皆、
「大学受験」
というものを目指す。
ということは、
「ここで少しでも乗り遅れれば、船に乗れなくなり、結果、自分が目指している道しか見えていないので、どこをどう通ればいいのかが見えなくなり、それが、恐怖をあおるしかない」
という考えであった。
だから、必死になって、大学を受験し、何とか、
「浪人もせずに、現役で入学することができた」
といえるだろう。
そう思うと、
「もし、浪人して、予備校に通うことになると、俺の人生はどうなっていただろうか?」
と考える。
「今のような、痴漢の道に走るなどということはなかったかも知れない」
とも思うのだが、それこそ、
「どの道を通ろうとも、結局は、性癖が変わるわけではないので、同じことになっていただろうな」
と思うと、
「大学時代が、後ろにずれたなら、余計、時間の流れがゆっくりになってしまって、さらに、抜けられるものが抜けられなくなるかも知れないな」
ということで、痴漢を初めてから、自分の中で、
「いずれはどこかで卒業しないと、行くところまで行ってしまう」
ということで、
「それこそ、警察に捕まるまで辞めることができなくなるかもしれないな」
と感じるのだった。
確かに、その感覚は自分の中にある。
だからこそ、
「中毒性があり、依存症だ」
ということになるのだろう。
それは分かっていて、
「いずれは辞めないといけない」
と思いながら、辞めることができない。
というのは、
「痴漢という行為の中に、癒しなるものが存在していて、その癒しを、自分で、放棄することができない」
ということになるのだろう。
「癒しというものは、一度身についてしまうと、自分から辞めるということができなくなってしまうものだ」
といえるだろう。
そうなると、
「外的な要因」
ということがなければ辞めることはできない。
それが、最悪の形で迎えた場合は、
「警察に捕まる」
ということになるだろう。
それを考えれば、電車の中で、癒しに浸りながら、
「いつ、誰かに手を抑えられて、痴漢として、警察に突き出されるか分からない」
と思えるのだった。
「そんな光景を実際に思い浮かべることは、時々あるのだが、実際に、捕まったこともなければ、その頃までは、実際に現行犯で捕まったところを見たことがない」
ということなので、それも無理もないことだろう。
しかし、実際にその光景を見てしまうと、どんな気分になることだろう?
「とにかく、依存症を吹き飛ばして、誰にも捕まらないようにするために、依存症を何とかするしかない」
ということで、
「ひょっとすると、一番難しいことではないか?」
ということなので、想像すらできるものではなかった。
もし、
「これが社会人になってからのことであれば、まだ続けているだろうか?」
と考えた。
たぶんであるが、
「社会人になって、ある程度までは、痴漢行為はしない」
ということになるだろう。
しかし、それはあくまでも、その間に、自分の意思で、
「断ち切ることができるか?」
ということであって、
もし、それを自分でできなければ、また同じことの繰り返しということになるだろう。
人間というものは、
「辞め時」
というものがあり、それを超えてしまうと、
「本当にやめることが難しい」
ということになるだろう。
それが、
「戦争」
などがそうではないだろうか?
また、今の時代であれば、
「結婚」
というものもその一つであり、
「戦争や喧嘩」
というものは、
「始めるよりも、終わらせることの方が、何倍も難しい」
と言われる。
特に、かつての戦争のように、
「勝ち目があるはずのない戦い」
というものを、時代の流れに逆らえず、突入してしまったということであるが、作戦としては、
「最初の一年くらいの間に、連戦連勝で、相手が、戦争準備をできるだけ遅らせて、その間に、相手に、戦意喪失させることで、講和条約に持ち込み、何とか有利なところで、手を打つ」
ということしかできなかった。
しかし、実際には、
「勝っているのに、どうして講和条約を結ばなければいけないのか?」
ということで、国民やマスゴミが騒ぐことで、
「戦争がやめられない」
ということ、
さらには、
「相手国としては、これから戦争の準備が整う」
ということで、決定的な戦意喪失でもない限りは、相手は、これからの反撃というものを真剣に考えていることで、
「唯一の辞められる」
という方法を取れなくなる。
ということもあるということであった。
「結婚」
という問題も、
「離婚は、結婚の数倍のエネルギーを使う」
ということになる。
なんといっても、離婚するということは、
「もう、一緒に暮らせない」
ということで、
「嫌いになったかどうか?」
というのは二の次であるが、逆に、
「嫌いでもないのに、一緒にいられない」
というジレンマが、却ってストレスやプレッシャーを生むことで、
「エネルギーを必要とする」
ということだ。
だからといって、
「何とか我慢して一緒に暮らす」
ということはありえない。
そんなことをすれば、
「人生の半分を棒に振ることになる」
といってもいいのではないだろうか?
だから、今の時代は、離婚率が昭和までに比べて、
「爆発的に多い」
といってもいいだろう。
表裏の性格