カメハメハ王朝の開国と滅亡
まだ支配下にないのはカウアイ島のみとなった。ポリネシア人がはるばる太平洋を越えてハワイ諸島に入植した最初の島がカウアイ島といわれており、カウアイ王家はハワイ諸島全部族の中の最高権威である。カメハメハもさすがに手荒な真似はできなかったが、強大な武力を背景にした脅迫によりカウアイ島部族はみな戦わずして降伏した。カウアイ王家の幼い娘は泣きながら海を渡り、カメハメハの妻となった。
1810年、名実ともにカメハメハはハワイ諸島全域を手中に収めた。
このころ、欧米人たちのハワイ諸島訪問が増え、トラブルが増えていた。二人の元欧米人を通訳兼顧問として、各国との交渉を行った。カメハメハは優れた感覚で不平等条約を拒み続けた。足を踏み鳴らして怒声を張り上げ条約締結を迫るイギリス人にカメハメハは当たり前のように静かに言った。
「条約の是非を問うためには神託の儀式が必要だ。ハワイ人4名、イギリス人4名を生贄にする。その中にはあなたも含まれます。わかりますか?」
そして条約締結にはたどり着けなかった。
カメハメハは一族を連れ外国船が立ち寄るオアフ島に移住した。レアヒ(マグロの頭)と呼ばれる火山(現:ダイヤモンドヘッド)が近くにそびえるパールハーバーは外洋の波を受け付けない良港である。ホノルルは捕鯨産業の補給基地、そして中国とアメリカをつなぐ中継貿易港として発展していった。白壇という樹木を独占的に中国に輸出して巨利を得た。
カメハメハは白いワイシャツを仕立てて愛用し、家族にも洋式の服装を勧めた。飛ぶように九年の月日が流れ、カメハメハはその壮絶な生涯を閉じた。
<宣教師マイケル>
1819年、茶色い巻き毛の青年がカメハメハ二世の前にひざまずいた。
「偉大なるカメハメハ二世陛下、我が旅路の果てに貴国の美しき島々にたどり着いたことを、深く感謝いたします。我が国より海を越えて参りしは、ただ貴国の文化と知恵を敬い、共に学び合うことを望むゆえにございます。陛下の統治により、ハワイの民は繁栄し、強き絆を築き上げておられると聞き及び、誠に敬服いたします。我らの教えは平和と愛を尊び、人々の心を高めることを旨といたします。もし貴国の民に何らかの恩恵をもたらすことが叶うならば、我らは尽力する所存です。偉大なる王よ、どうか我らの意図を汲み、共に知恵を分かち合う機会を賜りたく存じます。願わくは、神のご加護が貴国とその民に永遠にあらんことを」
アメリカのプロテスタント福音派宣教師マイケルはウイスキーの樽と調度品の数々を王に献上し、布教への協力を要請した。世界的に広く信者のいるこの宗教は国際貿易と平和を促進することは間違いないとも明言した。キリスト教の「永遠の命」という概念はそれまでハワイ諸島には無かった。現世で与えなくても死後に恩恵が与えられる。その概念は統治者にとってこの上なく便利である。王はこれを高く評価して受け入れ、キリスト教を国教とした。布教への献身をなによりも美徳とするアメリカ人宣教師が多数ハワイに移り住んだ。
五大神のお告げは極めて拘束力の強いものであり、それをいきなりやめるというのは大きな抵抗があった。日曜日に教会で礼拝をおこなうという習慣は祟り封じのために必要なものとして理解された。英語を理解できない民は宣教師の言葉を呪文として理解した。
美しい島々に長年続いた凄惨な人身供養は無くなった。戦士でもある多くの神官が解雇され、軍事組織は消滅した。もはや統治に暴力は必要ではない。そのころ実権を握っていた摂政の王妃はカメハメハ1世亡き後の戦士たちの反乱を恐れていた。ヤングたちがフィラデルフィアまで出張して調達した大砲、機関砲、最新式ライフル銃、そして軍艦は朽ち果てた。そしてハワイの伝統文化は否定され、フラダンスや伝統的医療も禁止された。
<カメハメハ三世>
1825年、カメハメハ二世はイギリス及びアメリカを訪問したときに麻疹に感染して死亡し、弟がカメハメハ三世として即位した。
カメハメハ三世は即位前に伝統的価値観により実妹ナヒエナエナと結婚していた。このことが問題になり、アメリカ人の閣僚が適切な正妻を選んでめとるように進言していた。宣教師たちも同意見だった。さらに息子が生まれ、王はこの男児を後継者として育てると宣言したため、多くの人々が異論を唱えた。
「聖書で近親婚は、厳しく戒められていることは陛下もご存じのはず。キリスト教以外の世界でも不道徳なものとされています。生物学的にも不適切な資質を持った子供が生まれる可能性があり、そのような後継者が国を統べることは好ましいことではありません。不適切な因習を根絶することは先王の絶対的な方針だったはずです」
その幼子は謎の死を遂げ、カメハメハ三世の妻も悲嘆にくれて病死した。カメハメハ三世は悲しみを乗り越えて執務に励んだ。彼はアメリカ人弁護士を閣僚として迎え入れ、議会制民主主義を採用した。憲法を制定、議会を通して法整備を行い王国は急速に国家としての形を整えていった。次々に各国と対等の通商条約を結んだことは日本の不平等条約是正にも影響を与えた。大部分の土地が王家の所有となり、首長クラスが残った土地を所有した。学校を作り識字率はアメリカを上回った。奴隷解放を宣言したことも当時としては先進的だった。
イギリス貴族が部隊を率いて宮廷に上がり込み、ハワイ諸島がイギリス領になる事を一方的に宣言する事件があったが、王が先頭に立ち冷静に対処したために撤回された。
<カメハメハ四世、リホリホ>
1855年、カメハメハ三世が急死しアメリカの大学に留学中のリホリホが呼び戻されてカメハメハ四世として即位した。まだ二十一歳の彼は宣言した。
「アメリカ人は有色人種に対する差別がある。私は皇族にも関わらず奴隷並みの扱いを受けることすらあった。有色人種は団結しなければならない。そのためにはまず我々と同じ血族であるポリネシアの人民と合流して大ポリネシア帝国を創る。蒸気船の技術が急速に発達しており、距離は問題ではない。そして次に同じ有色人種の島国、日本国と連合する。欧米列強と対等の太平洋連合国家を創らなければ我らに未来はない。まずサモア及びトンガの首長を説得するため訪問団を巡回させる。年間三万ドルの支出が必要だ。外交はアメリカ人の閣僚ではなく、私が一人で行う。そのためアメリカ憲法をモデルにして創られた現ハワイ王国憲法を停止して王権を集中した新しい憲法を布告する。私はアメリカで酷い目にあった。アメリカの福音派キリスト教から、王権を公認するイギリスの長老派教会に宗派を変える」
東アジアとアメリカ西海岸をつなぐ中継基地としてハワイ諸島の重要性は増し、税収はうなぎのぼりであった。しかし彼は二十九歳で病に倒れ、議会の力を制限した王制が残った。
<カメハメハ五世>
作品名:カメハメハ王朝の開国と滅亡 作家名:花序C夢