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表裏の可能性

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 というものは何なのか?
 ということである。
「事実」
 というのは、
「本当にあった事や、現実に存在することを指す言葉」
 ということである。
 つまり、
「本当である」
 ということ、
「現実に存在している」
 ということは確定しているというわけで、
「確実に一つしかない」
 といえるだろう。
 つまりは、言い換えれば、
「論理的必然性をもたず、他のあり方にもなりうるもの」
 といえるだろう。
 しかし、
「真実」
 というものは、
「真実には根拠があっても人の主観が紛れ込んでいる」
 ということで、言い換えれば、
「真実とは、各人が考える「事実」であり、必ずしも一つではなく、多数存在する」
 ということになるのである。
 つまり、
「事実というのは、一つしかないが、真実というのは、必ずしも一つではない」
 といえるだろう。
 もし、
「真実は一つしかない」
 ということであれば、何もわざわざ、事実とは別に、真実というものが存在する必要はないといえるのではないだろうか?
 それをわざわざ、
「真実」
 という言葉が存在しているということを考えると、
「そこには何かある」
 と考えられる。
 そこでその一つの理由として考えられるのが、
「事実が点であり、真実は線である」
 ということであろう。
 だから、ここで、
「点と線」
 というものは明らかに違うものであり、
「点を事実」
 とするならば、
「一次元は、単一のものである」
 といえるだろう。
 しかし、
「線を真実だ」
 とするならば、
「二次元というものは、複数存在し、それが重なることで、面となるのだ」
 といえるだろう。
 だから、
「二次元というものが、線から面に至る複数の要因」
 というものがあるように、
「三次元である立体にも、同じような複数の要因が考えられる」
 ということで、
「面というものが、上に重なってくると、高さを持つ」
 という感覚を、
「実際に、三次元としてみることができる」
 ということから、
「それぞれの次元への発想が、どのように影響してくるか?」
 それが、
「真実と事実」
 というものの概念と、
「それぞれの次元を結ぶ概念の違いのようなものではないか?」
 ということにつながっていくということであろう。
「真実や事実」
 というものを概念として考えるとするならば、そこに必ずなくてはならないという発想があるのだが、それが、
「時系列」
 というものである。
 これは、一次元から二次元に達する時系列というものではなく、そこに、現代の立体というものに、時間の概念を加えたものということで、
「時系列は、歴史というものだ」
 という概念で考えられるのではないだろうか?
 その時間の概念を考えると、
「歴史という学問が見えてくる」
 そこで考えられるのが、
「SF」
 として考える、
「タイムトラベル」
 という発想ではないだろうか?
「これが、科学者」
 ということであれば、
「時間というものの概念が、自分の中で見えているものもあるだろう」
 しかし、一般人においては、それぞれの次元としても。
「点」
「線、平面」
「立体」
 ということでの、それぞれの次元を想像すると、出てくるものには、さほど差がないといってもいいだろう。
「概念というものがどういうものなのか?」
 ということが分かっているからだということだ。
 しかし、
「四次元」
 という世界に関しては、まったく想像ができない。
 それこそ、
「マンガやアニメで見る世界」
 ということでの想像が精いっぱいだ。
 タイムマシンの発想として、一つ、
「タイムトンネル」
 というものがあり、そのトンネルが、まるで、
「ミクロ化した人間が、血管の中をうごめくように進んでいる」
 という雰囲気である、
 そして、その血管は、動いていて、それこそ、
「生きている」
 といってもいいだろう。
 さらに、そのまわりには、
「ゆがんだ時計」
 というものがたくさんくっつぃていて、それこそ、スペイン出身の画家である、
「サルバドール=ダリ」
 という人物が描いた絵を思い起こさせる。
 彼は、時代的には、
「戦前くらいからの人物」
 ということで、その時代あたりから、
「四次元の世界」
 という発想はあったのだろう。
 考えられてはいただろうが、実際に、絵として発想を形にしたので今も残っているのが、
「ダリの絵」
 ということになるのだろう。
 もちろん、
「そのような絵を描いたり、考えたりということをしたのが、ダリだけだった」
 ということなのかも知れないが、
「他に誰かいたかいないかは別にして、彼が天才だったということを、疑う余地というものはないだろう」
 それを考えると、
「そもそも、ダリだって、それらの発想から、四次元の世界をもっとみることができていたのであれば、画家ではなく、科学者になっていたかも知れない」
 といえるだろう。
 もっとも、
「その当時の人たち、特にダリという人物をよく知らない」
 ということから、あくまでも、妄想でしかないが、
「考えていること」
 というのは、
「案外、皆似て非なるもの」
 という発想なのかも知れない。
 実際に、
「似てはいるが、違うもの」
 といえるのか、それとも、
「違うということを最初に考え、その中で、同じところを見つけようとしている」
 ということなのか?
 考え方というのも、いろいろである。
 人間は、
「発想というものがいろいろと存在している」
 ということから、
「実際に、真実が一つなのかどうか?」
 ということを考えたりしている。
 しかし、
「真実は一つ」
 ということを、まるで、
「勧善懲悪の考え方」
 ということで、
「それが当たり前だ」
 と言われている。
 しかし、実際にそうなのだろうか?
「真実は一つだ」
 ということを、教育のごとく思い込ませることで、一つの理論を組み立てさせ、
「まるで洗脳しているか?」
 というような発想から、
「それこそ、宗教かかっているのではないか?」
 と考えられるのである。
「宗教というものが、人間を洗脳するために存在している」
 のであるとすれば、
「宗教の存在が、人間に与える影響の大きさを、今さらながらに感じさせる」
 つまりは、
「宗教における、真実というのがどういうものなのか?」
 ということであろう。
「宗教というものは、無数に存在している」
 といってもいいかも知れない。
 日本においても、元々、日本に存在していた、
「八百万の神」
 といってもいい、
「万物すべてが神だ」
 という発想の、
「国教」
 と呼ばれるもの。
 さらに、飛鳥時代、聖徳太子の時代伝来してきた仏教。
 そこから、平安時代、鎌倉、室町と、それぞれの時代に同じ仏教であっても、宗派が違うものが伝来してきた。
 そして、今度は、戦国時代に伝来したのが、ちょうど、欧州での、
「大航海時代」
 と呼ばれていた時代において、伝来したのが、
「鉄砲」
 というものと一緒に、
「キリスト教」
 が伝来してきた。
 キリスト教というものは、またたく間に、布教されていくことになるのだが、それは、
作品名:表裏の可能性 作家名:森本晃次