表裏の可能性
「生まれてこないと、歴史を変えられない」
ということ、
「歴史を変えられないのだから、自分が生まれてくる」
という二つの矛盾したことは、
「過去を変えてしまった」
ということで、
「一つであるはずの真実」
というものの可能性を、
「二つにしてしまった」
ということであり、
「可能性が複数できてしまうと、その可能性の数だけの、パラドックスが生まれる」
ということになるのであろうか?
「矛盾」
ということでよく言われることとして、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
ということわざであったり、
「ヘビをしっぽから飲み込んでいく時、最後にどうなってしまうのか?」
ということなど、
「解釈ができない矛盾」
というのは、もっとたくさん潜んでいるに違いない。
なぜなら、
「矛盾というのは、可能性の数だけ潜んでいる」
ということになるのだ。
それが、
「無限に広がるのが可能性だ」
と考えると、
「矛盾も無限に広がっている」
ということである。
しかも、
「無限という曖昧な言葉ではあるが、可能性と矛盾とは、まったく数を同じくする無限というものである」
といえるのではないだろうか?
無限の可能性
過去の歴史のいろいろな可能性というものを研究しているのが、
「表向きの大学研究室」
というものであった。
特に最近の歴史研究というのは、
「逆説の日本史」
などと言われていたりして、それこそ、
「パラドックス」
というものを意識しての、歴史研究が多いようだ。
そもそも、
「パラドックス」
という言葉を日本語にすると、
「逆説」
ということになる。
つまりは、
「歴史というものが、それぞれに、矛盾をはらんでいる」
ということから、彼らは、まず、
「歴史の真実」
というものを考える前に、
「自分たちだけの、タイムパラドックスについて考えるようにしよう」
という研究をしているのであった。
たとえば、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
という発想である。
確かに、生物というのは、
「親から子供が生まれて、その子供が親になって、子供を作る」
ということで、種族をつないでいくということになる。
つまりは、
「親から子供が生まれ、子供が親になる」
ということを繰り返す。
そのため、
「世界の始まりはどこからか?」
ということを考えた時の、
「共通の疑問が、この矛盾ということになるであろう」
これは、一種の、
「合わせ鏡」
というものと似ている。
つまりは、
「自分の前後、あるいは左右に鏡を置いた時、そこには、自分が写っていて、その向こうに鏡が見えるということから、永遠に、鏡と、自分というものが写し出される」
ということで、永遠に小さくはなるが、ゼロになることなく続いていくというものであった。
ということで、
「人間というのは、親と子の関係」
さらに、
「鏡というのは、自分とさらに写し出されるその先に自分が見えるということになるために、一つの鏡が重なる」
ということで、
「自分と鏡の関係」
ということで、
「それぞれに、一直線にタスキを掛ける」
という考え方が、
「永遠につながっていく列を紡いでいる」
といってもいいだろう。
それが、
「永遠の人類の発展」
という発想と、
「限りなくゼロに近いもの」
という発想がつながるのであった。
だから、人間にとって一番大切なこととして、日本人が大切にしてきたものは、
「お家存続」
といってもいいだろう。
それがひいては、人類をつないでいくということになり、それが崩れると、今のような、
「人手不足問題」
あるいは、
「少子高齢化問題」
などというものにつながっていくということになるのだ。
もっといえば、
「人類の歴史」
というのは、
「無限である」
ということが最低限の生存目的だといえるのではないだろうか?
だから、
「人類の始まり」
というのは、世界の広さから考えて、地域によって、その起源は違っていても当然であるが、
「ひとたび始まってしまうと、終わりが見えてくるとすれば、すべてが、一気に終わってしまう」
ということになるといえるのではないか?
となると、
「一気に、この世から消える」
ということもありえるわけで、よく言われることとして、
「核戦争であったり、異常気象などによって、地球もろとも、人類の歴史が終わってしまう」
という考え方である。
これこそ、
「SF小説」
というものの、定番とも言われる話であるが、それ以外には、
「タイムパラドックス」
によって、この世が、まるで、
「最初から存在しなかったかのように、一瞬にして消えてしまう」
という発想である。
それこそが、
「タイムパラドックス」
というもので、
「徐々に存在が消えていく」
というわけではなく、そのある瞬間の歴史を変えてしまうと、その歴史が次第にすべてに影響し、この次元の時系列としてつながってきた歴史が、すべて抹消されるということになれば、
「最初から、この世に存在していない」
という、
「遡及的な考え方によって、最初から存在していなかった」
と考える方が、理屈に合っているということになるだろう。
タイムパラドックスによって、世の中というものが、まったく理屈に合わないものだと考えるのは、
「タイムパラドックスなど存在しない」
という考え方からきているものではないだろうか?
つまりは、
「時系列と、次元というものをどこか否定する」
という考え方からではないだろうか?
「タイムパラドックス」
というものは、あくまでも、
「時系列において、すべてが、一直線につながっている」
ということから、
「真実は一つ」
という考え方からではないだろうか?
真実というものが、そもそも、
「事実というものが、無限につながっていることでできた線だ」
といってもいいのではないだろうか?
つまりは、
「事実というものは、点という一次元」
としての考え方であり、
「真実というのは、そのたくさんある点が、時系列という形で結びつく」
ということから、
「一本の線」
つまりは、
「二次元」
というものとなり、その考え方から、
「点と線」
というものは、
「一次元と二次元」
というそれぞれの考え方の違いから、
「事実は一つしかないが、真実は、一つとは限らない」
という考えになるのではないだろうか?
そして、そこに
「時系列が加わる」
ということは、少なくとも、
「一次元と二次元との境界は、時間がかかわっている」
ということであり、そのキーポイントは、
「時系列である」
といってもいいだろう。
ただ、この考えは、さらに矛盾を含んでいる。
というのは、
「四次元の世界」
という考え方が、
「時間というものの介入を匂わせている」
ということからであった。
というのは、
「四次元の世界は、タイムマシンのような、タイムトラベルを必要とするもの」
というのが、基本的なSFでの考え方である。