表裏の可能性
そもそも、
「正悪」
というのは、
「何に対して、正しいか悪だとか言えるのだろうか?」
「正や悪」
というものは、その人それぞれに存在するもので、
「自分が正しい」
と思うことは確かにその人にとっては正義だ」
ということになるかも知れないが、他の人にとっては、
「悪になる」
ということかも知れない。
それこそ、その問題に直面した人が、10人いて、正悪を考えると、立場的に、
「6人が正しいといい、4人が悪だ」
と言えば、
「多数決の原則」
というものから、
「正」
だということになる。
つまり、
「正に対しての反対のことを言えば、それが嘘だということになり、その環境においては、
「正悪」
さらに、
「ウソか誠か」
ということは決まってくるということである。
そもそも、
「真に受ける人がいるから、嘘が成立するのであり、世の中には、表裏というものがある以上、必ずどちらかが、正しいことだというのであれば、もう片方は、嘘だということになる」
その理屈を無意識にであるが分かっているということから、
「ウソというものは、必ず存在するものである」
だから、
「ウソをついてはいけない」
ということは、逆にいえば、
「ウソか誠かということをちゃんと理解できている必要がある」
ということで、
「ウソだと言い切るには、嘘か本当かを見分ける力が必要だ」
ということだ。
ただ、その状況によって、嘘と真実がコロコロ変わってしまえば、
「社会の倫理」
というものは保たれない。
それが治安であったり、モラルであったりというものである。
だから、
「世の中には、法律というものがあり、その法律をもとに、正悪というものがきめられ、
「公共の福祉、善良な風俗」
ということで、民主主義であれば、
「多数決」
というものから
「正悪が決まる」
という理屈になるのであった。
だから、裁判などにおいて、
「ウソをつくと、偽証罪」
というものになるが、しかし、
「何も言わなければ、それは黙秘」
ということで、権利として認められているという。
「ウソ」
というものが、本当のことに化けてしまったり、逆に、
「本当のこと」
と言われることでも、時と場合で、悪いことにされてしまう。
それが、裁判においての忖度のようなものであり、時と場合によっては、
「正悪」
というよりも、
「助かるべき人を助ける」
ということが正しいとされることもある。
ただ、それも、
「その助けるべき人」
というのが正しい解釈なのか?
ということになると、その考えは、
「見つけることができるのだろうか?」
つまりは、
「交わることのない平行線」
ということになるのかも知れない。
「ウソか誠か?」
それとも、
「正悪」
というもののどちらが、善悪なのか?
を考えると、結局は分からなくなるのだ。
それが、結局は、
「オオカミ少年」
という話の本質なのではないか?
と考えると、
「はっきりと分からないところが結局は多い」
ということになるだろう。
そもそも、曖昧な話というものが多い、
「おとぎ話」
というものであるが、
「世界各国に散らばっている」
というおとぎ話であるが、地域も時代も違うのに、なぜか、
「似たような話」
が多いというのは面白いものだ。
「どんなに人種が違っても、同じ人間の考えること、教訓であったり、何位が正しいのか?」
ということは、最初から決まっているといってもいいのではないだろうか?
特に、
「見てはいけない」
「開けてはいけない」
と言われる、
「見るなのタブー」
と言われていることが、世界各国にあるというのはそれだけ、
「皆考えることは一緒だ」
ということで片付けていいのだろうか、
そもそも、
「元から、日本に伝わっていた話」
というものではなく、おとぎ話というのは、
「世界から、大航海時代に伝わってきたものを、いかにも昔からあったもの」
ということで、
「歴史を勝手に作り替えたものなのかも知れない」
とも考えられる。
それこそが、
「世界的な大きな嘘」
といってもいいのではないだろうか?
世の中において、
「ウソ」
というものが、
「真に受ける」
ということから、
「限りのないもの」
ということになると考えると、やはりどうしても許されないということになるのだろうが、だからといって、それを悪いこととして、解釈できないところもあるだろう。
世の中には、
「ちょっとした振動が、どんなに遠く離れたところであっても、その影響が大きなものになる」
という考えがある。
これは、その時間制にも無限性があるということから、どれほどの力が与えられるか、まだまだ調査の余地があるということであろう。
それを、
「ウソをついた時の効果」
というものと並行して考えると、どのような効果を示すかと考えられる。
それを、
「バタフライアフェクト」
といい、
「バタフライ効果」
とも呼ばれる。
それらの言葉が、まるで、
「都市伝説」
であるかのように呼ばれることで、
「今までの歴史の中で、いかに影響してきているかということを研究するところがあるという」
これらの研究は、
「今現在の現実というものが、過去の歴史によってつぐまれたものだ」
ということであるが、
「ひょっとすると、その影響が、どこから紡いでいるものかということを考えると、そこに、バタフライエフェクトが影響している」
という考え方と、その逆に、
「バタフライエフェクトというものの存在を、今の現実が示していると考えられ、その歴史の真実が、エフェクトを作っている」
という考え方もありである。
だから、ある研究において、
「ウソと誠」
というものの研究。
さらには、
「バタフライエフェクト」
というものを、いかに結びつけるか?
という研究をしているという。
そのために、その研究所では、
「歴史の研究」
というものと並行して、
「バタフライエフェクト」
のよる効果とを結びつけて考えようとしていた。
そのために、
「タイムマシンの研究もおこなわれていて、ただそれは、
「過去や未来にいく」
という単純なものではなく、
「過去に行って、歴史を変えることが、タイムパラドックスに結びつくという考えから、歴史が変わらないタイムマシンの研究というものも、一緒に研究されていた」
だから、その
「歴史を変えない」
ということを、逆の発想から、
「バタフライエフェクトを利用できないか?」
ということが考えられるということであった。
「タイムパラドックス」
というものは、
「過去に行って、過去を変えてしまうと、未来が変わってしまう」
ということであり、
「へたをすれば、過去を変えたことで、自分が生まれなくなるかも知れない」
という発想を導くことになるのであって、
「生まれてくることのない自分が、歴史を変えることはできない」
ということを、
「時間軸の矛盾」
ということで、実際に、
「何が正しいのか?」
ということが証明できないということだ。