表裏の可能性
それでも、得をするという人が付く嘘には、信憑性があるが、得をするわけでもないのに、それでも、
「ウソをつく」
ということだってあるのだ。
つまりは、
「ウソをつくということが、世の中のためになる」
ということもあるわけで、これを、一種の、
「必要悪だ」
といってもいいだろう。
そして、もう一つ言えることは、
「ウソをつくということで、それを真に受ける人がいる」
ということである。
いくら嘘が悪いことといっても、それを真に受ける人がいるから、悲劇が起こるわけで、悲劇が起こらないのであれば、嘘をつくということが、
「悪いことだ」
ということになるわけはないのだ。
これは、
「イソップ寓話」
というものの中に入っている話の中にある、
「オオカミ少年」
という話を思い起こさせるもので、少年が、
「オオカミが来た」
といって、
「世間が騒ぐのを面白がって、何度も嘘をつくようになった」
だが、そのうちに、さすがに村人たちは、オオカミ少年の言葉を、誰も信じないことになったのだ。
それはそうだろう。
さすがに、何度も騙されていると、誰が信じるというのか?
ということで、
「オオカミが来た」
と言われても、誰も逃げなくなり、その少年を、
「ほら吹き」
ということで、誰も信用しなくなったということである。
そのうちに、
「本当のオオカミが現れて、村人は食われてしまった」
という話であるが、そもそも、
「イソップ寓話」
というのは、戒めを込めた話が多いと言われているので
「この話には、どのような戒めが含まれているのか?」
ということを考えると、
「かなり深いところが考えられる」
というものであった。
というのは、まず、オオカミ少年が、
「オオカミが来た」
ということを、村人がうのみにして、全面的に信用したことで、オオカミ少年に、
「一杯食わされた」
ということになる。
この時点で考えれば、
「オオカミ少年が、大人をからかうといういたずら小僧ということで、悪者ということになる」
ということであり、逆に村人に対しては、
「騙されているということを疑わずに、信じたために騙された」
ということであり、
「正直者」
ということになるだろう。
しかし、オオカミ少年は、どんどん図に乗り、子供ということで、どんどんいたずらっが過ぎていった。
村人の方は、さすがに騙されたことに気づいて、
「あいつのいうことは信じない」
ということになったというのも、無理もないだろう。
だから、オオカミ少年が、
「オオカミが来た」
といっても、今度は誰も信用しなくなったということになる。
ここまでであれば、
「よくある話」
ということで、これだけでも教訓になるということだ。
しかし、この話はここでは終わらなかった。
オオカミ少年が、相変わらず嘘をついていたので、村人は、オオカミ少年のいうことを全面的に信用しないと考えた。
だから、
「オオカミが来た」
ということが本当に起こった時、誰も信用しないのだから、食われてしまうのは、当然だという、悲惨な結果になった。
「じゃあ、教訓というのは何か?」
ということになるが、最後だけを見ると、
「どんなに嘘をつかれても、本当のことなのかも知れない」
ということを考えると、
「何があっても、油断してはいけない」
というのが教えだと考えれば、理屈にはあっている。
確かに、」
「そのことを強調して訴えたい」
ということであれば、この話には信憑性があり、理屈の通った話である。
しかし、道徳的に考えれば、
「オオカミ少年のいうことを、信じようとした大人たち」
というものを、
「バカなことだ」
という一刀両断で、
「食われても仕方がない」
と言い切れるだろうか?
特に、最後の結論として、
「オオカミ少年のいっていたことを最後まで信じていれば、よかっただけだ」
ということになるのだろうが、実際に彼らが食われたのは、
「何が正しいのか悪かったのか?」
ということではなく、
「油断大敵」
ということだけが結論だということのために、
「子供のいうことの信憑性は関係ない」
と言いたかったのではないだろうか?
一つのおとぎ話には、
「必ず何かの教訓が含まれている」
ということであるが、そもそも、
「その教訓がどこにあるのか?」
ということを、考えさせるのも、
「おとぎ話」
というものだ。
そう考えると、
「物語というのは、教訓めいたものが、ところどころに散らば目られている」
ということから、
「一つの文節それぞれが、教訓といえるのではないか?」
とも考えられる。
特におとぎ話などは、
「教訓が含まれているものだ」
ということを分かっているので、最初から、
「おとぎ話を、教訓ありき」
ということで読んでくると、
「どこに、教訓が含まれているか分からない」
と思えてくるのだ。
なぜなら、
「その文章のすべてに、今日軍が含まれている」
と感じないわけにはいかないからであった。
「木を隠すには森の中」
という言葉があるが、それと同じで、
「一つの嘘を隠そうとすると、本当のことの中に紛れ込ませるのがいい」
ということで、逆も真なり、つまりは、
「一つの正しいことを隠そうとする場合、嘘の中に隠すのが一番」
ということになる。
それこそ、
「砂の中に、砂鉄を隠すようなものだ」
ということになる。
しかし、これだって、
「磁石を使えば、簡単に見つけることができる」
というもので、問題は、
「探そうとしているものが、磁石を使うことで、すぐに判別できる」
という
「金属製のものだ」
ということであろう。
その考え方でいけば、
「オオカミ少年の話」
というのも、
「木を隠すには森の中」
という発想が含まれていて、
「教訓がどこにあるのか?」
ということを考えさせるということが、一番の肝という話だったのかも知れないと思えば、
「ウソをつく」
ということの本当の意味がどこにあるのか?
ということを理解できるかも知れないといえるだろう。
「ウソというものは、すべてにおいての悪である」
というのも、考え方としては間違っていないだろう。
嘘をつくことで、真実が分からなくなるということであるが、
「そもそも、真実が正しい」
といえるのかということも問題である。
「知らぬが仏」
という言葉があるが、
「確かに世の中には、知らない方がいい」
ということがたくさんある。
つまりは、
「本当の中に嘘が含まれていて、嘘の中に本当のことが隠されている」
すべてが、本当であったり、嘘であったりすれば、
「それが本当に、すべてにおいて、正なのか悪なのか?」
ということが分からなくなる。
つまりは、
「世の中の正悪というものを見る目が養えない」
ということだ。
「真実は一つ」
という言葉をよく言われるが、本当にそうなのだろうか?
真実というのは、確かに、
「事実を積み重ねたものだ」
とはいえるが、
「真実というものは、正しいのか間違っているのか?」
ということは分からない。