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表裏の可能性

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 そういう意味で、たまに、
「三日以上眠らないでも平気だ」
 というような人がいるような話を聞いたことがあるが、それは、本当に三日続けて寝ないというわけではなく、その間、うとうとしながら、本当は寝ているのかも知れない。
 自分一人がその場にいるということであれば、
「うとうとしていても、眠ってしまったとしても、気づかないのも当然ということなのかも知れない」
 それを考えると、
「本当に寝ていない」
 というのは、
「自分で意識していないが、実際には、嘘をついている」
 というのと同じことではないだろうか?
 また、あれは、京都のどこかのお寺だったと思うが、上から落ちてくる水源があり、その水をひしゃくに注いて飲んだ時、
「一杯飲むと一年、二杯飲むと二年長生きができる」
 と言われていて、
「じゃあ、三杯飲めば?」
 と聞くと、
死ぬまで生きられます」
 という、笑い話のような話を聞いたことがあった。
 それは、一見まともに聞こえるが、ふと考えると、笑い話のように思い、次の瞬間には、
「これは面白い」
 ということで、感心させられるということであった。
 そういう意味では、
「ウソというのも、堂々とついてしまうと、いかにも、嘘と思えないだけの効力を持つことで、嘘というのも、薬に十分になるということである」
 つまりは、
「毒にも薬にもならない」
 という言葉があるが、その逆は、
「毒にも薬にもなる」
 ということではなく。それ以外にも、
「毒にはなるが、薬にはならない」
 ということにも、
「薬にはなるが毒にはならない」
 ということも含むわけである。
 つまりは、そのどちらに対しても、
「あるなし」
 というのは、
「表裏、どちらにも言える」
 ということになるのではないだろうか?
 それら、
「表裏という考え方は、嘘と誠ということから考えると」
 ことわざにもあるように、
「嘘から出た誠」
 というものがある。
 というものだ。
「これほど、対照的なものであるにも関わらず、どちらが本当なのか?」
 と考えさせられる。
 だからこそ、
「木を隠すには森の中」
 と言われるように、
「ウソを本当のことの中に隠す」
 というのも、逆に、
「本当のことを、嘘の中に隠す」
 ということが、まったくの正反対でありながら、
「逆も真なり」
 という言葉と結びつくのではないか?
 といえるのではないだろうか?
 それを考えると、
「ウソと誠」
 というのは、
「本当に表裏なのだろうか?」
 と思わせるのであった。

                 表裏の嘘

 世の中には、表裏の関係にあるものが結構たくさんある。
「光と影」
「昼と夜」
「正義と悪」
 などと、
「数え上げればたくさんある」
 といえるだろう。
 実際には、形としてハッキリと表裏が見えるものと、そうではないというものがある。
 それが、
「元々の表裏の中に、含まれているものだ」
 といえるのではないだろうか?
 というのも、
「光と影」
 というものがあるが、そもそも、
「光と影が一緒になって一つのものを形成している」
 といえることから、
「光と影」
 というものが、
「表裏だ」
 ということになるのだろうが、実際に光っているものとしての、光というものに、
「表裏がある」
 といえるのではないだろうか?
「光というものを一つのものだ」
 と一刀両断で考えると、
「影も一つのものだ」
 と思えるのだ。
 確かに、光と影の二分をその世界の表裏だと考えてしまうと、
「それ以上細分化できない」
 と思えるのも、無理もないことであろう。
 しかし、考え方によっては、
「どんどん小さくなっていくが、永遠に、その小さくなっていくのが終わらない」
 という考えがある。
 それが、
「限りなくゼロに近い」
 という発想である。
 つまりは、
「合わせ鏡」
 の発想のように、どんどん小さくなっていく。
 要するに、
「どんどん半分ずつにしていくと、最後には、どうなるか?」
 ということである。
 これを数式に当てはめて、どんどん、2で割っていくと考えればいい。
 最初がどんな数字であっても、2で割り続けるとしても、絶対にゼロになるということはないのだ。
 というのは、
「数字の存在するものから、存在する数字で割った場合、絶対にゼロにはならないが、限りなくゼロに近づく」
 というものだからである。
 そして、いくらやっても、ゼロに近づくがゼロにならないことが無限ということになり、たとえ、もとが無限であったとしても、最後にゼロになるということはないのである。
 それを考えた時、
「ゼロ」
 というのは、無限よりも強いといえるかも知れないと考えていた。
 ただ、
「ゼロと無限という発想は、まったく正反対の発想だ」
 といってもいいかも知れない。
 なぜなら、
「無限」
 というのは、曖昧なもので、
「「無限という言葉を使えば、違った数字であっても、無限という言葉で言い表すことができる」
 というものであるが、逆に、
「ゼロ」
 というのは、
「どんなに小さくなったとしても、ゼロになることはない」
 ということを、
「整数から整数を割る」
 というやり方で証明されているということである。
「曖昧で、無限という言葉を使えば、たいていは言い表せるが、逆に、どんなに小さくても、ゼロとは言わせない」
 ということから、
「その絶対性」
 ということにおいて、
「ゼロ」
 というものよりも強いものはない。
 といってもいいだろう。
 つまり、
「ゼロ」
 というのは、その性質上、無意識であっても、無限であることに変わりはないということになるのだ。
 それを考えると、
「表裏の関係というものは、数字には、必ずある」
 というのは、
「プラスとマイナス」
 という、
「絶対数字」
 というものである。
 しかし、ゼロというものには、その絶対性というものがない。
 というのは、
「ゼロには、プラスもなければ、マイナスもない」
 しかし、これは面白いというもので、
「何からゼロで割っても、その答えはゼロになる」
 ということではない。
 というのは、
「解がない」
 ということになるのだ。
 普通に考えれば、
「ゼロで割れば、ゼロになる」
 といえるのかも知れないが、なぜ、ゼロで割ると答えがないのかというと、これも、表裏の関係ということで、証明に使うのだが、その回答が正解かどうかを考える時、
「反対の数式で、それを証明しようとする」
 というのだ、
 例えば、
「10÷5」
 というのは、答えは
「2」
 ということになるが、この証明をするとき、
「答えの2に、割られる5というものを掛けると、最初の数字の10になる」
 ということで証明ができるのだ。
 それを考えると、
「10÷0」
 を考えた時、
「この答えを0ということにすると、計算方式は、ゼロ掛けるゼロ」
 ということになる。
 しかし、これは、割る数がいくつであろうと、証明しようとするもとの数が、
「0でしかない」
 ということになるのだ。
作品名:表裏の可能性 作家名:森本晃次