SFと歴史の分岐点小説
「会社の上司に文句を言って、首になり、会社を恨んでいる人間が、会社の悪事を暴露する」
というような暴露本が売れるというのも、それはまるで、
「ゴシップ記事」
というものを喜ぶ読者がいるからで、それこそ、
「スポーツ新聞の怪しい見出しに連れられて、販売部数が増える」
という図式そのものではないだろうか?
それが、
「小説界」
というものの正体であり、
「だからこそ、ゴシップ記事のような内容が、売れることになるのだろう」
今度は、読者側にとっては、敷居が低い。
というのは、
「今までであれば、本を買うと結構高いし、しかも本屋に行かないと、購入できなかった昔である。
だから、本屋で何冊か、
「立ち読み」
という形で見てみないと、購入するまでに、度胸がいるといってもいい。
確かに他のものに比べれば、決して高いものではないが、読んでみて。
「面白くなかった」
と思えば、
「無駄な買い物をした」
と感じることだろう。
それが嫌なだけに、
「小説というものを読むためには、立ち読みが必要だ」
ということで、本屋に行って、本の背表紙を眺めながら、本を探すという行為が、意外と新鮮だったりするのである。
長瀬は、今の時代の小説はあまり好きではなかった。
特に、
「ライトノベル」
であったり、
「ケイタイ小説」
などというものが出てくると、
「小説界も終わったな」
とまで思うようになった。
ケイタイ小説などを見ていると、
「無駄に隙間が多く、一行を無駄に段落替えすることで、まるで、短歌をたくさん書いているかのような錯覚に陥る。
それこそ、紙の本であれば、
「無駄にページ数を稼いで、利益を得よう」
という姑息な手段に見えてくると感じるのであった。
確かに、その方が読みやすいのかも知れないが、そこまであざとくされると、却って面白くない。
ただ、今の時代は、紙媒体が限界に達し、町から本屋が消えていくという状態で、そのような形をとっているとすれば、
「出版社のやり方も、結局は、質より量ということになるのではないか?」
と感じるのだった。
「一冊にかかるコストが安い」
ということは、それだけその本にかかる値段が安いということで、率から考えると、
「一冊売れても、利益は大したことはない」
ということだ。
実際には、
「リスクが小さいのはメリットということで、その分、売れるものだけを販売する」
ということにすればいいわけで、そうなると、煽りを食うのは、作家であった。
そうなると、
「売れない本を書いた作家の原稿料はめちゃくちゃ安い
ということで、本屋でいえば、
「重版」
ということになれば、
「それだけ印税を高くする」
ということにすれば、どちらも損はないということになる。
損をするとすれば、
「本を書いて最初の原稿料さえ安くしておけば、売れない本が多いわけなので、その分、赤字が少なくていい」
ということだ。
「被害が拡大する前に食い止めて、その中から、利益が生まれるものを選定する」
というのが、
「出版社界の今の常識」
ということになるのだろう。
そんな時代に入ってくると、長瀬は、若い頃と違って、
「書きたい小説を書く」
ということはもちろんのことだが、
「書きたいというより、書くことに脅威のあるものを書いてみよう」
と思うようになった。
「毎回同じジャンルをずっと続けていくのが、自分のスタイルだ」
と思っていた。
確かに。
「自分の作品のジャンルを固める」
というのは当たり前のことで、それが、
「小説家というものだ」
と思っていた。
その発想は、昭和の終わりから平成にかけての考えの一つで、特に、
「ミステリーなどにはあったかも知れない」
というもので、特に、
「二時間サスペンス」
などと言われるドラマが、ゴールデンタイムにテレビ放送されていた時代のことだった。
「安楽椅子探偵」
と呼ばれるものであったり、
「探偵と呼ばれてはいるが、プロではない」
「趣味で探偵をしている」
という人や、
「監察医」
や医者などの、専門家が探偵だったり、
「芸者」
などが探偵をしていたりということも実際にはあった。
それらが、
「その作家の作風」
ということで、それこそ、連作ものという雰囲気を醸し出していて、それこそ、
「そのジャンルの第一人者」
と呼ばれるようになると、それだけで十分であった。
長瀬も、最初はそういう作家を目指した、
本屋には、そういう小説家の、
「人気シリーズ」
ということで、その人の作品がズラリと並んでいたものだ。
だが、そんな小説は、元々が昭和末期の小説で、実際にテレビ化されたのは、平成になってから、それだけ、売れたといってもいい。
しかし、それも、次第に飽きてきたのか、それとも、
「放送局でも、一世を風靡した時代に終わりが来た」
ということなのか、実際に、
「番組編成」
というものが次第に変わっていった。
これも、
「一種の時代の流れ」
といっていいのだろうが、
「テレビ番組というと、早朝から深夜まで、その時間帯の番組があった」
早朝から、出勤時間にかけては、
「朝の情報番組」
そして、昼間というと、
「奥様劇場」
さらに夕方は、
「子供向けのアニメや特撮の再放送番組」
そして、ゴールデンの前半は、
「なんといっても、夏の時期は、プロ野球中継。そしてシーズンオフには、クイズ番組であったり、時代劇」
さらに、後半ともなれば、
「二時間サスペンス劇場」
などであった。
そして、深夜ともなると、
「大人の番組」
というものがあり、それぞれの時間帯で、特徴的あ番組があったものだ。
しかし、今はそんなことはない、
早朝こそ変わりないが、それ以外の時間は、基本的に、
「売れない芸人」
であったり、
「かつては売れていいた芸人をテレビに引っ張り出し、ワイドショーであったり、バラエティ番組というような、正直、面白くもなんともない番組を放送していた」
それこそ、
「芸人は安いから」
ということになるのだろうが、そもそも、番組編成が変わったことに関しては、
「金が掛けられない」
という共通の考えがあったのことだろう。
たとえば、
「夕方の再放送」
というものが減ったのは、
「再放送ということになると、番組の使いまわし」
ということで、製作費の名目で、スポンサーが金を出しているので、それを続けると、
「どこのスポンサーもつかない」
ということになるだろう、
さらに、
「芸人を使っているのは、それだけコストが安い」
といえるからだろう。
またもう一つとしては、
「昔あれだけ、クイズ番組などで、視聴者参加というのが多かったが、今ではほとんどなくなってしまっている」
というのは、
「視聴者が参加しなくなった」
という直接的な理由もあるだろうが、それよりも、
「視聴者参加型にすると、予算がかかって仕方がない」
ということになる。
それを避けるために、
「クイズ番組が、徐々に減っていった」
といってもいいだろう。
そして、問題は、
「その流れ」
というものだった。
作品名:SFと歴史の分岐点小説 作家名:森本晃次